フォーカス

坂茂、磯崎新、アニッシュ・カプーア──スイスと人道・文化支援

木村浩之

2011年09月01日号

「アーク・ノヴァ」プロジェクト、ルツェルン




大きさは長さ72メートル、幅41メートル、縦23メートルで、曲面が入れ子になったような形状をしている。空気膜構造で、700人までの観客を収容できるヴォリュームがある。カプーアの2010年パリでのインスタレーションを思い起こさせる構造体だ。軽く、また歪みの許容量が大きい構造のため、平坦な土地さえあれば建設・安全管理は容易だ[© Ark Nova]

 80才になっても衰えを知らず国際的なプロジェクトを複数手がけている建築家磯崎新氏は、坂展オープニングの翌週、ルツェルンの《KKLセンター》(ジャン・ヌーヴェル設計)にて「アーク・ノヴァ」と命名された東日本のための移動音楽ホールプロジェクトを発表した。プログラムの詳細はまだ発表されていないが、数年間にわたって被災地を巡回し、音楽やダンスなどのプログラムをできるだけ無料で公開する方針で計画されているという。5億円前後の施設建設費などとともに、支援金による運営となる。
 移動イベントホールといえば、ザハ・ハディドが設計した「シャネル・モバイルアート」プロジェクトが思い起こされる。2008年より香港、東京、ニューヨーク、ロンドン、モスクワ、パリを巡り、2011年5月にパリにあるアラブ世界研究所(設計ジャン・ヌーヴェル)に寄贈されたのがまだ記憶に新しい。254のパーツに分解して輸送できるこのパヴィリオンは、シャネルのデザイナーでありプロジェクトのプロデューサーであるカール・ラガーフェルドの強い希望によりハディドを設計者に指名し実現したという、現代アートと建築とファッションの織り成すプロジェクトだった。
 一方「アーク・ノヴァ」は、ロンドンを中心に活動しているインド系アーティスト、アニッシュ・カプーアと磯崎新のコラボレーションによるデザインで、室内テニスコートなどに汎用されている空気膜構造を用いる移動仮設建築だ。カプーアは、2002年のロンドン・テートモダンのタービンホールでの巨大なインスタレーションや2011年のパリ・グランパレ・モニュメンタでのインスタレーションなど、建築的規模の作品も少なくない。また、2012年開催のロンドンオリンピックのモニュメントとして選ばれた彼の作品は、高さ115メートルもあり、世界トップクラスの建築構造エンジニアのセシル・バルモンドが構造設計を行なっている。ちなみに、ロンドンに居を構えるバルモンドはインドの隣国スリランカ出身であり、カプーアの複数の大規模プロジェクトにクレジットされているだけでなく、磯崎の《フィレンツェ・ウフィッツィ美術館》のエントランス部の増築プロジェクト(未完)の構造設計をも行なっている。


フルオーケストラから現代音楽、ダンスまでさまざまなプログラムに対応できるように計画されている。設備音や周辺環境からの騒音が避けられない構造のため、難易度が高くなることが予想される音響設計は、サントリーホールや磯崎設計のウォルト・ディズニー・ホールなどの音響設計で評価の高い豊田泰久(永田音響設計、LA事務所)による[© Ark Nova]

 Kajimoto(コンサートマネージメント)とともに「アーク・ノヴァ」の共催者に名を連ね、今回のプロジェクト発表の場を提供したルツェルン音楽祭は、ザルツブルグ音楽祭などと比べると歴史も浅く日本での知名度も高いとは言えないが、その起源から言うとザルツブルグ音楽祭の弟分ともいえなくない存在である。1938年、ナチスがいよいよ勢いを増してきた頃、ナチスにより追い立てられた音楽家や芸術家たちがかくまわれたのがスイスであり、そのなかにはザルツブルグ音楽祭の常連だった音楽家たちも多くいた。そうして同年開催されたのがルツェルン音楽祭だったのである。初演は、同市郊外にある旧リヒャルト・ワグナー邸(6年ほど滞在したことになっている)にてトスカニーニの指揮によって行なわれ、当時普及が進んでいたラジオによる放送が行なわれるなど、華々しい始まりであった。
 ちなみに、その1年後の夏、ピカソ、ブラック、ゴッホ、クレー、ココシュカなどナチス党により「退廃芸術」と名づけられた125の作品が競売にかけられたのも、この湖畔の町ルツェルンであったことが思い出されよう。作品だけでなく退廃芸術家のレッテルを貼られた芸術家らもスイスに集まっていた。より早くからスイスに移住していたキルヒナーをはじめ、クレーは1933年にスイスに亡命、ココシュカも第二次大戦後だがスイスに居を定めているし、音楽家も、ストラヴィンスキーやアメリカ亡命直前のバルトークなどもスイスに滞在している。当時のスイスは、激動の諸国に近隣する中立国であるというだけでなく、冒頭に記したように赤十字の創立などに代表される人道的活動の聖地でもあり、多くの人材が集まり、そしてそこからいろいろな動きが起こる、まさにそんな場所であったのだろう。
 今回のプロジェクト発表にあわせ、クラウディオ・アバドが指揮するルツェルン音楽祭管弦楽団により、マーラーの交響曲第10番第1楽章「アダージョ」が演奏され、東京国際フォーラムなどで中継放送されたという。マーラーが選ばれたのは、同楽団がグスタフ・マーラー・ユーゲント管弦楽団のメンバーらを中心に編成されたという事情があるのだろう。それだけではなく、交響曲第10番は、ちょうど100年前にあたる1911年作の作品というつながりがある作品だ。ただしこの作品はマーラーの死により未完に終わった作品で、その後補筆というかたちで、数多くの「完成版」がつくられている作品として知られているものだ。不意の事情により途絶えかけたひとつの小さな命に、息吹を与え、血肉を与え、立派な姿に育て上げた、文化的「人道」救援の恩恵に大きく支えられているともいえなくないこの作品が選ばれたことには、偶然以上の意思を感じずにはいられない。

  • 坂茂、磯崎新、アニッシュ・カプーア──スイスと人道・文化支援