フォーカス
人間の生活を楽しくゆたかにするデザインを求めて(「ユーモアのすすめ──福田繁雄大回顧展」レビュー)
新川徳彦(社会経済史、経営史、デザイン史)
2011年10月15日号
対象美術館
2009年1月に急逝したグラフィック・デザイナー福田繁雄(1932-2009)の回顧展がはじまった。副題は「ユーモアのすすめ」。ポスター作品約200点と立体作品約100点、アイデアスケッチなどによって、福田繁雄が生涯にわたって追求しつづけてきた視覚的コミュニケーションの方法──ユーモアとトリック──を探る。
福田繁雄の没後、自宅アトリエに残された約1,200種、6万点のポスターは遺族によってDNPグラフィックデザイン・アーカイブに寄贈された。2010年3月にはギンザ・グラフィック・ギャラリーでその一部108点の作品が紹介されている(「福田繁雄のヴィジュアル・ジャンピング」2010年3月4日〜3月27日)。今回の展覧会に出品されているポスター作品約200点は、このとき寄贈されたもの。また、立体作品は1999年に開館した二戸市シビックセンター福田繁雄デザイン館の所蔵作品である。
本展は当初4月から岩手県立美術館で開催される予定であったが、東日本大震災の影響で延期され、三重県立美術館(2011年7月9日〜9月4日)から巡回が始まった。この後、いわき市立美術館(2011年11月12日〜12月18日)、広島県立美術館(2012年2月21日〜3月31日)、高崎市美術館(2012年4月14日〜6月24日)、札幌芸術の森美術館(2012年7月14日〜9月2日)に巡回する。福田繁雄が中・高生時代を過ごした岩手での開催が中止となったことは、とても残念である。
誰もがたのしめるユーモアとトリック
展示は年代順である。初期の作品は、勤務先であった味の素のポスター(1956-58年頃)など。表現や用いられる色彩がその後のポスターとは異なり、まだ強烈な個性は隠されている。1960年代半ばになると、単純化された線や面、シルエットなどが用いられはじめ、見る向き、視点によって異なる意味の図像となる作品が登場する。「国際反戦ポスター・コンテスト」に出品された《NO MORE》(1968)は、離れて見ると赤い地色の上に描かれた骸骨の図像であるが、近づくと骸骨の陰影をつくっているものが無数の爆弾であることに気づく。作品への距離の違いによって生じる図像の多義性は、切手や国旗シールでつくられたモナリザ像《JAPON-JOCONDE 1989》(1989)[図1]にもつながる表現であり、気が遠くなるような制作作業もまた福田作品の特徴をつくりあげていく。他方でシンプルな色彩と形態でありながらも重厚なメッセージの伝達に成功したのが、代表作《VICTORY 1945》(1975)[図2]である。この作品は「ポーランド戦勝30周年記念国際ポスターコンペ」に出品され、グランプリを受賞した。ところで、受賞を伝える当時の朝日新聞の記事によると、グランプリにはもうひとつハンガリー作家の作品があり、「敗戦30年」を迎えた日本のデザイナー福田繁雄の作品は「“敵に塩を送る”意味もこめて、特別に採用された」とある(1975年5月8日夕刊、5頁)。これが本当なら、福田に劣らずなんとウィットに富んだ審査員たちであろうか。いずれにせよ、それまでも海外でのコンペティションで賞を取っていた福田繁雄が、この作品によって国際的な名声を高めたことは間違いない。
グラフィックにおけるユーモア、視覚的トリック、そして視点の相違によって生じる多義性という方法は、立体作品へと拡張する。《バード・ツリー》(1965)などの木製のパズルは、組み合わされたときとバラバラになったときとで、異なる世界が出現する。ある面から見ると男女の文字、横に回ると男女のシルエットに変わる立体《男という字のかたち》《女という字のかたち》(1974)の方法は、ひとつの立体の中にピアノを弾く人物とバイオリンを弾く人物とが存在する《アンコール》(1975)など、さまざまに応用される。また二次元でしか表現できないと思われたエッシャーのだまし絵を立体化した《落ち続ける滝〈三次元のエッシャーNo.2〉》(1985)や、《消えた柱》(1984)[図3]、寸詰まりな自動車《ペチャンカー》(1986)は、目に見えているものを信じたいという本能、あるいは常識を逆手に取って、私たちの視覚を攪乱させる。なかでもそのヴォリュームによって圧倒されるのは、《ランチはヘルメットをかぶって...》(1987)[図4]。溶接された848本のカトラリの塊にスポットライトが当たると、その下にできる影はホンダのオートバイなのだ。
出品されているポスターは福田繁雄が制作したうちの十分の一にも満たない。立体も小品が中心である。それでも、けっして小さくはない会場の密度はたいへんに濃い。膨大な作品を生み出したその発想力とエネルギーとに圧倒される。
優れたデザイナーの、特異なスタイル
福田繁雄は、1984年から日本グラフィックデザイナー協会の副会長を、2000年から亡くなるまでのあいだには会長を務めた。また、1977年から東京藝術大学美術学部デザイン科で教鞭を執り、1981年から1986年まで助教授を務めた。その生涯で、数々の国際的なデザイン会議、ポスターなどのコンペティションに招待され、また審査員も務めた。福田繁雄が世界的なグラフィック・デザイナーであることは疑いない。しかし、福田繁雄の仕事のスタイル、作品は他の多くのデザイナーたちとは明らかに異なっていた。
仕事のスタイルで特別なのは、福田は自宅をアトリエに、アシスタントを持たず、制作はもちろんのこと、頻繁な海外への出張など仕事のマネジメントもすべて自身で行なっていた点である(これについて、彼は「こんな面白いコトをどうして他人に任せられますか。もったいないよ。自分が楽しまなくっちゃ」と述べている(福田繁雄『DESIGN才遊記』[DNPアートコミュニケーションズ、2008]、11頁)。また、デザインの現場にコンピュータの使用が一般的になっても手仕事を続け、そればかりか彼はインターネットも、電子メールも利用しなかったという。アイデアスケッチから実制作まで、彼がすべてのプロセスを手掛けていたことを考えると、じつにクラフトマン的な、いや、クラフトマンでも徒弟や職人を雇っていたのだから、福田繁雄は工業化を起点とする近代デザインとも、それ以前の手仕事とも、次元の異なる世界に生きていたと言えよう。
作品の点でも福田繁雄は特別である。展覧会、音楽会、博覧会などのポスターやモニュメントなど、パブリックな作品が中心で、企業をクライアントとする商業的なポスターはほとんど手掛けていない。そしてグラフィック・デザインを本業としながらも、彼はその表現において平面と立体とのあいだを自在に行き来する。また、福田繁雄ほど生前から国内外で数多くの展覧会が開催されたデザイナーはほかにいるだろうか。しかも、展覧会のためにつくられたオリジナルの作品がたくさんある。そしてそれらは使えない食器やカトラリであったり、座ることのできない椅子であったり、機能性や合理性とは無縁のオブジェなのだ。
機能性と合理性の裏にあるもの
それでは福田繁雄にとっての「デザイン」とは何なのだろうか。彼はこれまでデザインの役割の中心が機能性、合理性にあったことを認めたうえで、その裏にある不合理なものの存在とその必要性を指摘する。自動車の安全な運転にはハンドルに「遊び」が必要であるという点を彼はしばしば例に出す。ことは人間生活にも同様にあてはまる。「『遊び』は機能性と合理性に埋まった現代生活に欠くことができない人間の心のためのデザインという、必然性がある」(福田繁雄『遊MOREデザイン館』[岩波書店、1985]、7頁)。そう、機能的でもなく、合理的でもないところにも、必要なものがある。その必要を平面、立体に関わらず、視覚的な表現によって満たすことが、福田繁雄のデザインが対峙した課題であり、目的であり、そのための方法論が「ユーモア」であり、「トリック」なのである。「人間の生活を楽しくゆたかにすることがデザインであるならば、デザインを見たり、考えたりするときには、やっぱり笑い、ユーモア、エスプリが必要だと思うのです」と彼は語っている(前掲書)。彼は時代の問題をすくい上げてユーモア溢れる表現に落とし込む。テキストをほとんど用いず、太い単純な線もしくは面によってなされた表現は、言葉の壁を越えた普遍性を持ち、ユーモアは人々の心にダイレクトにメッセージを届ける。それゆえ、彼のポスターは本来の社会的、時代的な文脈から離れても、自立して鑑賞されうる作品になるのだ。
今回の展覧会にもの足りなく思うのは、作品の背景に存在したであろう社会的な問題との関わりが見えにくい点である。たしかに、同時代のデザイナーと比べて福田繁雄のデザインの方法は一貫しており、また彼が見出したテーマが普遍性を持つがゆえに、彼の作品と時代との関わりは見過ごされがちのように思う。しかし、福田繁雄はなによりも受け手の視点を大切にするデザイナーであった。ポスターを見た人々、展覧会を訪れた人々は作品をどのように受けとめたのか。社会や時代の文脈は作品にどのように反映していたのか。さらに多様な側面から評価が進むことを期待したい。