フォーカス

森美術館〈メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン〉を語る

八束はじめ/太田佳代子

2011年10月15日号

 2011年9月17日より森美術館で〈メタボリズムの未来都市〉展が開催されている。同展企画の中心的な役割を担ったのは「メタボリズム研究会」代表=八束はじめ氏。八束氏は、展覧会を理解するための重要な補助線となる研究書『メタボリズム・ネクサス』を5月に上梓。建築家レム・コールハースの主催する設計事務所OMAのシンクタンクであるAMOのキュレーター=太田佳代子氏は、メタボリズムをめぐるインタビューとリサーチをまとめた『プロジェクト・ジャパン』(レム・コールハース&ハンス・ウルリッヒ・オブリスト著)の編集ディレクター。11月には、日本語版の刊行が予定されている。お二方に、それらの執筆・編集過程を通して新たに見出され戦後日本最大の建築運動である「メタボリズム」について、展覧会の見所も含めて語っていただいた。

「ネイション・ビルディング」としてのメタボリズム

八束さんは1997年に『メタボリズム──1960年代日本の建築アヴァンギャルド』を刊行されています。そのとき執筆された内容──メタボリズムあるいはメタボリストたち──に対して、現在どのようなお考えとスタンスを持っていますか。

八束──十数年も前の本ですから、当時からずっとそのことを考えていたわけではないのですが、この『メタボリズム──1960年代日本の建築アヴァンギャルド』を書き上げた後、宿題が残ったという気はしていました。この本では作家の話が中心になっていて、背景が書けていませんでした。ある書評でそう書かれて、正しい書評だと思ったのです。個人の建築家の身振りやヴィジョンという点ではこの問題はとらえきれないということです。それで、今年出した『メタボリズム・ネクサス』では、最初からコンテクストをもっと広くして書きました。
 もうひとつは『ネクサス』の冒頭でも書きましたが、昔レム・コールハースが、バブルが弾ける直前の日本のポストモダン状況について、「社会的内容がないのにすごい建物が建っておもしろい」という類いの発言をしたことがあります。シニカルな見方ですが、結構シリアスな内容を含む、皮肉を超えた発言のように思いました。ただ、僕はそれに対して、何らかの答えを言わなければいけないと考えたのです。つまり、日本は昔からずっとそうだったわけではないのだと。これはポストモダンとモダンの違いですが、その二つを書くことが十数年来の宿題でした。
 それもあって、3年程前に森美術館の南條史生館長から「メタボリズムの展覧会をやりたい」と言われたときに、僕は丹下健三さんを入れましょうと言い、その後もメタボリズムの範囲を広げていったわけです。『ネクサス(連鎖)』ということですね。その頃には太田さんたちによる『プロジェクト・ジャパン』も始まっていたと思いますが、最初からそのことを知っていたわけではない。その後は直接お付き合いもさせてもらい、いまでも太田さんと情報交換をしていますが、そもそものスタートは互いにインディペンデントでした。
 今回、僕の『メタボリズム・ネクサス』が4月に出版され、レムと太田さんたちによる『Project Japan』(Taschen刊)が出て、震災のために2カ月ほど遅れましたが「メタボリズムの未来都市展」が開催されたわけです。
 上に述べたように『メタボリズム・ネクサス』執筆はレムの言葉がある種のきっかけになっていますから、僕は当然その影響を否定はしません。ただ、そういった直接間接の影響関係を超えて、それら3つは随分似ているという印象があります。以前、レムはそのことについて相乗効果という意味で「シナジー」という言葉を使っていました。それがあるといいと。それぞれスタンスは違えど、似た問題意識を持って連動していると思います。僕は、9月18日の展覧会に関連する連続シンポジウムのための前打ち合わせで、ネイダー・ヴォスーギアン(結局個人的事情で来日せず)から、レムの本の構成について「お前が仕込んだのか」と聞かれましたが、「お互いに問題意識が似ていて結果的にそうなっただけ」という返信をしました。
 たとえば展覧会のカタログでは「ネイション・ビルダー」という言葉を使っているんですが、『プロジェクト・ジャパン』のなかでレムもその言葉を使っています。かつて、南條さんにメタボリズムを一言で言うとなにかと聞かれて「ネイション・ビルディング」と答えたことがあり、そのソースがレムだったかどうか記憶がないのですけれど、その位には意識が似ていたのだと思います。


左=東京大学丹下健三研究室《東京計画1960》、1961年
撮影:川澄明男、画像提供:丹下都市建築設計
右=菊竹清訓《海上都市 1963》、1963年/1980年代(模型)
制作:植野石膏模型製作所、885x620x620mm、所蔵:菊竹清訓、画像提供:菊竹清訓

レム・コールハースのメタボリストたちに対するリサーチはどのように始まったのですか。

太田──『プロジェクト・ジャパン』は、結局スタートしてから刊行まで6年もかかってしまいました。実は本の構成は2008年にはもうできていましたが、リサーチ量が尋常ではなく、完成度を高めるのにそれから2年かかりましたね。そもそもの始まりは、私が『Domus』の編集をしていたときに、特集記事として最初に提案したものでした。日本のネタをやりたいという動機があり、まだやられていない大穴は何かと考え、メタボリストとしての黒川紀章さんがおもしろいと思ったのです。自分の経歴を含め、これは使えると思い、外国人にインタビューをしてもらおうという単純な発想でした。当時は、あの世代が国際的にはまだまだ理解されていないと思ったのです。そして企画には、聞き手にレム・コールハースとハンス・ウルリッヒ・オブリストを、という条件を付けていました。そのような提案に対して、当時編集長だったステファノ・ボエリは「すぐにやろう」と支持してくれて、早速実行されました。
 当時は黒川さんもお元気でしたが、それから約2年後に東京都知事選に出られ、その直後に亡くなられてショックでした。最初は現役の皆さんに話を聞くというスタンスだったんです。ところが、それから急にいろいろな方々が他界され状況が変わりました。
 最初に日本に来た2005年は、3日間で7人にそれぞれロングインタビューを行なう強行軍でした。そのなかには下河辺淳さんのように、当初インタビューする計画がなかった方もいます。これは、木幡和枝さんに相談したときに、おもしろいのではないかというアドバイスをいただき、少し調べてみたら深く関係がありそうな臭いがしたのです。当時は、歴史家にも「あの人は関係ない」と否定されるような人でした。

八束──それは歴史家が勉強不足ですね。


八束はじめ氏

メタボリストの思想的背景と出自

太田──確かに今ではとんでもない話です。われわれの企画は下河辺さんの存在を軸に展開していったと言ってもいいくらい。インタビューをしていわゆるメタボリズム以上に広がりがある視点が持てました。磯崎新さんを敢えてインタビューのトップバッターにしたのも、同じ理由です。予想以上にこの3日間は強烈で、「これは大変なことかもしれない」と感じました。菊竹さんからまったく予想外の話をされてびっくり、といったことも何度かありましたしね。
 コールハースはピーター・クックの生徒だったこともありますし、最初は彼から話を聞いて理解しているわけです。1970年代に非常に影響力を持っていた『AD』(Architectural Design)というイギリスの建築雑誌があり、そこで菊竹さんは日本のリベラルな革命主義者として紹介されています。そういった認識でインタビューに行ったら、実はそうではなく、「僕は戦後に土地を奪われて、地主というポジションを剥奪され、これまでの生涯、忸怩たる思いで建築家をやってきた。本当は地主として社会に貢献したかったのにできなかった。だから、自分で自分の自由になる土地をつくることにした」という説明があったのです。「アメリカによってもたらされた戦後の自由解放については反対なんですか」と聞いたら、「可能であれば、地主だった方がよかった」という話でした。つまり、われわれや世の中のメタボリズムに対する認識は間違っていたと、そのとき気付かされたわけです。

八束──最近菊竹さんはその話をよくされますね。あれは本当に正直な気持ちではないでしょうか。日本が敗戦によって民主化されたとか、GHQが小作人を解放して土地を分け与えたということになっていますが、日本の農村構造はそれほど単純ではなかったということです。菊竹さんとしては、農村の経営はその実態を知らない役人ではできないということ、GHQがそれを見なかったのはおかしいということなのでしょう。晩年にさしかかった菊竹さんが、ようやく語り始めた本音だと思います。僕はそのように保守か革新かという単純な二元論ではない話を『メタボリズム・ネクサス』の中で語ろうとしています。それが戦前の方へと歴史を遡っていった理由です。西洋の人から見れば、歴史家でもない限りそういう込み入った話はわからなくて当然ですが、建築家のレムが理解したのはさすがですね。僕は菊竹さんとは別の入口から入っていったわけですけれど、確かに日本の近代化そのものを語らなければ話が終わらないとは思いました。


左=菊竹清訓《都城市民会館》、1966年
撮影:新建築写真部
右=大髙正人、槇文彦《群造形へ(新宿副都心ターミナル再開発計画)》、1960年
画像提供:大高建築設計事務所

メタボリズムはムーブメントとして、ある種の社会革命的な側面を持っていたと思いますが、それと個人の倫理や思想が乖離していたということなのでしょうか。

八束──乖離していたというより非常に複雑な形で絡み合っていたということだと思います。これは『プロジェクト・ジャパン』にも『メタボリズム・ネクサス』にも出てきますが、機関誌『メタボリズム』の2号目は出版される前に結局挫折しています。そのミーティングに顔を出していた槇事務所の遠藤精一さんに話を聞きましたが、絶対にまとまるわけがない議論だったそうです。そういう意味ではメタボリズムは単純な運動体ではなかった。
 しかしながら、大高正人さんは東北の農村出身で国土を変えていく土木事業がすごいと思って建築の世界に入っていきました。黒川紀章さんも、愛知県の生まれで伊勢湾台風ですべてやられてしまう土地を何とかしたいという問題意識から入っていますし、菊竹さんも治水問題になみなみならぬ関心があるのは、地主である実家が実際の治水事業をしていたからです。そういう意味で、ある程度社会的ルーツは共通しています。そこに日本の戦後の姿が見えてきます。川添登さんは、1950年代にはラディカルな左翼ですから、そういった問題に対しては先鋭的でしたが、教条的なマルクス主義者ではなかったので、菊竹さんとも話が合ったのだと思います。教条的だったらこういう姿は見えずに、たとえば政治的な事柄も過度に単純化されて『体制』に加担したかどうかという総括になってしまったはずです。メタボリズムが一元的でなかったように、政治も一元的ではなかったのです。
 そのあたりを含め、最もワイドレンジでものを考えていたのが丹下健三さんだと思います。『メタボリズム・ネクサス』でも『プロジェクト・ジャパン』でも、リサーチを進めていくと重心が丹下健三さんの方へ動いていくという点が共通しているように思います。レムも冒頭で、丹下さんにはインタビューできなかったが主役だというように書いています。つまり問題を突き詰めていくと、これまで歴史的に扱われてきた範囲よりも大きく広がってしまうということです。僕は「ネクサス」という言葉をそういった意味で用いています。太田さんとしてはどうでしょうか。


左=槇文彦《ゴルジ構造体(高密度都市)》、1967年/2011年(模型)、629 x 900 x 900 mm
制作:前橋工科大学 遠藤精一、亀井栄三郎、石田敏明研究室、制作協力:味覚糖株式会社 山田一郎、株式会社ムラタアートワーク 村田稔、株式会社テラグレス 須永聡、株式会社立花工芸 池戸重吉、撮影:Echelle-1
右=《日本万国博覧会 大屋根・お祭り広場》、1970年
撮影:新建築社写真部 画像提供:DAAS

太田──2005年の時点では、私たちにとって丹下さんは前川國男さんや坂倉準三さんのようなポジションで、メタボリズムとは直接関係ないと考えていました。その後、ロッテルダムでリサーチを続けていたのですが、見方を変えるとまったく違うと気づかされる展開が何度かありました。一般的には丹下さんはメタボリズムのメンバーの先生、ないし先輩のような立場です。そういう意味で色々と協力したかもしれませんが、やはり当初は丹下さんの作風はいわゆるメタボリストとは違うように見えていましたし、その源泉とも見えませんでした。
 これはメタボリズムの解釈がバラバラであるということにも関わります。西洋でメタボリズムはとても人気があり、OMA/AMOにも話を聞かせてほしいとか、本はいつ出るのかという問い合わせが頻繁にあります。レクチャーでもメタボリズムを知らない人はいません。ただ、それがどのような理解なのかと言えば、ビジョナリーな建築を考え、世界的なムーブメントを起こした人たちというものであって、時に丹下さんや磯崎さんが入っていたりもします。それは、彼らの理解が間違っているというよりも、メタボリズムが世界へと発信され、インパクトを持った結果、むしろ本質的なものが定着した、ということではないでしょうか。確かに丹下さんの作品の一部や、磯崎さんの1960年代前半の諸々のプロジェクトも見方によってはメタボリスティックです。80年代には磯崎さん自身もそのことを認め始めておられたようですし、私たち自身はその辺、あまり厳密には分けていません。丹下さんも磯崎さんも全部混ぜた、メタボリズムの建築図鑑も作りましたし。

八束──僕も磯崎さんは極めてメタボリスト的だと思います。当時は戦略的に自分を区別していただけで、その差がメタボリスト相互の違いよりもっと大きかったとは思わない。浅田彰さんがモル的なメタボリズムとモレキュラスなメタボリズムとかドゥルーズ・ガタリ用語で、この区別を分かった風に強調していますが、あまり意味ないと思う。むしろこの手のメタボリズムを矮小化して総括してしまうやり方が70年代以降の日本で一般化してしまったのは拙かったと思います。あまりに鮮やかだったので磯崎さんの選別戦略に皆が乗ってしまった。磯崎さん的な方向に行ったのではなく、もっと単純に反動化していった人々(それは左翼に多いんですが、彼らはそれを資本に抗することだと錯覚していると思う)にしてもそれに乗った。高度成長期や万博加担への反動から、左翼ルサンチマン風にメタボリズムをスケープゴートにしてしまったのだと思います。メタボリストたちもそれへの反論をうまく組み立てられなかった。黒川さんですらカプセルをやらなくなって、〈共生〉というポストモダンで折衷的な方向に行ってしまった。あれは転向ですよね。川添さんが50年代のように先鋭だったら、こういう総括にはならなかったのじゃないかな?
 欧米では、特に建築関連のテクストでは、背景まで見ているものは少ないので、どうしてもテクノ・ユートピアのようなものに総括されてしまいますけれど、仔細に見ていくとテクノ・ユートピアという側面は、アーキグラムに比べれば一部でしかありません。槇さんや大高さんはテクノ・ユートピアンではないと認められていますが、菊竹さんらとことさら対比的に扱うのもあまり意味がないと思います。菊竹さんや黒川さんもそれだけではないのです。アーキグラムを通じてイギリスの近代を語れるとは思いませんが、日本の社会や世相に深くアンカーしていたメタボリズムや丹下さんを通すと、建築を超えた日本の近代化のあり方を問うことができる。むしろ、そのように問わなければこの運動を理解したことにはならないという確信は、リサーチを深めていくにつれて強くなっていきました。


磯崎新《空中都市・渋谷計画》、1962年/2011年(CG映像)
制作:芝浦工業大学有志研究室、デジタルハリウッド大学院小倉研究室


磯崎新《空中都市・新宿計画》、 1961 年/2011年(CG映像)

フォーカス /relation/e_00014457.json l 10012486