フォーカス
チャイナ・コネクション2 スウォッチによるアーティスト・イン・レジデンス
木村浩之
2012年01月15日号
秋吉台国際芸術村(山口県)やトーキョーワンダーサイト(東京都)など、日本国内でもアーティスト・イン・レジデンスという言葉が聞かれるようになって久しい。ただ日本では行政誘導型のものが大半を占めるが、国外、とくに欧米では財団や企業の文化支援枠により運営されているものも多い。今回は、その最も新しい例として、オメガなどの高級時計ブランドを数多く抱え、スイス時計業界でも最大のグループであるスウォッチグループが運営するアーティスト・イン・レジデンスにフォーカスしたい。
スウォッチとアート
スウォッチといえば、80年代に一世を風靡した安価でポップなプラスチック時計のスイスブランドである。設立当時は日本製クオーツ時計の繁盛によりスイス機械時計産業の伝統が危機に瀕していた時期であった。そういう時勢にあって、このスイス国製クオーツ時計が瀕死の伝統に追い討ちをかけたと非難されもしたが、その後スウォッチ社はそれら伝統ブランドへ次々と救いの手を差し伸べ建て直し、いまではスイス機械時計の伝統の守護神とされている、事実上世界最大の時計会社である。
19世紀創業が珍しくないスイス時計業界ではきわめて若い1983年創立(統合による)のスウォッチ社は、時計学校と時計博物館も運営し、計器・IT機器の部品産業などにも積極的に幅広く事業を展開している。特に、メルセデス・ベンツとともに「スマート」という超小型車を開発したり(Swatch + Mercedes + Art)、インターネット時間という世界共通の10進法の時間を提唱したり(1998年より)と、時計生産販売業の枠を超えるイノベーティブな活動を行なっており、これが、創業者のニコラス・ハイエック(1928-2010)を──アップルのスティーブ・ジョブスとはいかないまでも──経営者の手本として仰ぐ人たちが絶えない理由となっている。ちなみにジョブスの父はシリア出身で、ハイエックはシリアの隣国のレバノン出身である。
東京銀座には創業者の名が冠せられた「ニコラス・G・ハイエック・センター」というスウォッチグループのフラッグシップショップがある。国内地価最高値の銀座通りに面した1階を公共通路として開放し、小ショールームを兼ねたガラスのエレベータが、地上・地下に配置された各ブランドフロアへと都市歩行者を導くという、坂茂設計によるイノベーティブな建築でもよく知られている。革新的経営を実践してきたハイエックとイノベーティブな建築のパーフェクトマッチとも言える組み合わせがあまりにも自然だったため、「スウォッチとアート」と聞いてもその組み合わせに違和感を感じないどころか、いままで特にアートや文化に対する支援活動で知られていないのが意外なくらいだ。スウォッチグループのスポンサーシップはスノーボードやビーチバレーボールなどスポーツ面が中心で、ネスレ、UBS銀行、クレディ・スイス銀行、スイス・リー、ロシュ製薬など他のスイスのグローバル規模の企業がこぞって文化支援に熱心なのと対照的なくらいであった。
そのスウォッチがついにアート界に進出した。
スウォッチ・アート・ピース・ホテル上海
スタート地点に選ばれたのは上海だ。外灘(バンド)という旧外国人区の洋風建築が黄浦江(長江の支流河川)沿いに立ち並ぶ地区で、上海一の観光名所にもなっている一等地である。もともとあったホテル建築が火災のため焼失し1908年に再建された。周辺のグレートーンの列柱つき擬古典風の重くモニュメンタルな建築群(主に金融系会社が入る)に囲まれ、白壁に赤レンガ色の窓枠のこのルネサンス風の端正な建物は特にエレガントな存在感を放っている。ライバルの多かったこの物件の取得に相当苦労したそうだが、南京路というこれまた上海一のショッピング通りとして知られる通りとの角地にあり、商業用途としても、またステイタスとしても、この上ない立地に間違いない。
ここに、ショップ、ホテル、レストラン、ギャラリーに加え、アーティスト・イン・レジデンスの入ったコンプレックスとして、「スウォッチ・アート・ピース・ホテル上海」は2011年11月にオープンした。中には、その建築のステイタスにふさわしいオメガ、ブレゲ、ブランパンなどのスウォッチグループを代表するブランドが入っている。もちろんスウォッチもだ。
ホテルとレストランが建物の上階を占め、部屋は250平米、一泊40万円級のスイートルームのみという、これまた「ステイタス」にふさわしい仕様となっている。
その直下階にあるのがアーティスト・イン・レジデンスだ。
違和感を感じないだろうか。
アーティスト・イン・レジデンスといえば、それほど人目につかない場所にあることが多い。制作には広いスペースを必要としたり、異臭や大きな音が出たりすることがあるので、地価の安く近隣密度の高くない郊外立地になりがちなのは当然だ。さらに日本では「村おこし」的意味合いを持たせて運営している場合も多いので、なおさら人目につかない場所で行なわれるというイメージが強いかもしれない。
超一等地のラグジュアリーブランドショップとラグジュアリーホテルとのカップリングにアーティスト・イン・レジデンスを持ってくるというのは、他に例を見ないというだけでなく、そもそも常識的に収益の差が大きすぎて成り立たないと考えるのが普通であろう。アーティスト・イン・レジデンスは膨大な面積を占めるにもかかわらず支出のみで金銭収入はないのだから。
選ばれたアーティストは、滞在費用を全額スウォッチの負担で、6カ月まで滞在できる。条件は、「痕跡をひとつ残すこと」。つまり、平たく言い換えると、作品を一点、2階のギャラリーに残すことが求められているだけだ(ヴィジュアルアーツの場合)。一方、生活費や制作費などの援助はない。その点で、必ずしも最も経済的に優遇されたアーティスト・イン・レジデンスとは言えない。しかし、冒頭に記したように、国際商業都市として発展してきた上海のその歴史の現場にて、多国籍のアーティストに囲まれ、無数の訪問者の渦に揉まれ、未知数の体験に開かれた時空の提供は、他に類を見ないものだと言えるだろう。
アーティスト・イン・レジデンスの選考委員は、創業者の執務中の突然死の後、経営を継いでいる息子と娘、スウォッチの創業家に続くスウォッチグループの大株主であり取締役のエスター・グレター女史、ハイエックの友人でもあったフランソワ=アンリ・ピノー氏(妻は映画『フリーダ』にてフリーダ・カーロを演じたメキシコ人女優のサルマ・ハエック。ハイエックとハエックはともにHayekで同じレバノン系だが、直接の血縁関係は知られていない)、俳優ジョージ・クルーニーなど7名を連ねている。オメガのイメージ・アンバサダーのクルーニー氏はともかく、現代美術の10大コレクターに数えられているグレター女史(スイス・バーゼル、コレクション総額は資産の約3分の1にもあたる約700億円)と、また現代美術界では文句なしの最大のコレクター(コレクション総額約1,400億円)であるフランソワ・ピノーを父に持つピノー氏(フランス・パリ)が選考委員に入っているというだけで、このアーティスト・イン・レジデンスの注目度は高くなるだろう。