フォーカス
日本ファッションをめぐる、時代的-世代的な乖離と捻れ──「FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性」展レビュー
井上雅人(武庫川女子大学講師、ファッション史・デザイン史)
2012年09月15日号
対象美術館
1970年代後半から、日本のファッションは世界に誇れるものだという自負が、徐々に芽生えはじめた。最初はケンゾーひとりだったパリで活躍するデザイナーも、80年代の半ばには両手では数えきれないほどになっていた。その頃からファッションは、建築や映画とならんで、日本を代表する現代文化として国内外に紹介されるようになった。ファッション・デザイナーたちの作品は、文化といえば江戸より前のものしかない神秘的な遅れた国と、無表情な労働者たちが安くて質のいい工業製品を世界中に売りさばくエコノミックアニマルの国という、日本のふたつのイメージのあいだを埋めてくれる貴重な存在になっていった。
この時期、日本のファッションが世界的に評価されるようになった背景には、様々な要因がある。まず、日本が経済力を持ち、消費社会が成熟したことがある。アジアやアフリカで多くの国々が独立し、多文化主義が肯定されたことも大きい。それに、そもそも世界的と言っても、欧米諸国、特にフランスでの評価であることを忘れてはならない。ヨーロッパが世界の中心であることを完全にやめ、それでもパリがモードの発信源であり続けるために、消費者だけでなく生産者の供給源としても、日本の社会を巻き込んでいったという事情もある。
しかし、この時期に、日本の社会が多彩な才能を得たということも、たしかにある。「FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性」と名付けられた本展覧会においても、80年代の偉大な業績を振り返ることから展示がはじまっており、入り口からエスカレータを昇った先の最初の展示室では、まず、コム・デ・ギャルソンと山本耀司の作品が展示してある。横一列に並んだモノトーンの服のなかには、00年代から活躍しているマトフの服もあるが、それ以上に、ここは80年代に活躍した川久保玲と山本耀司の業績を称えるためにあるとでも言えそうで、「陰翳礼讃」とテーマが付けられているのも、当時パリで「黒の衝撃」と称された彼らのことを思い起こさせる。もちろん、本展覧会がロンドンやミュンヘンでの展示の凱旋展であり、諸外国に日本のファッションを紹介していく手続きとして、という構成上の理由も大いにあるのだろうが、それでも最初の展示室を見ると、80年代のインパクトが、いまだに絶大であることが良くわかる。
そのことは、最初の展示室から二つ目の展示室に続く長い廊下で、じっくりと時間を過ごせば更に実感する。ここでは、コム・デ・ギャルソンと山本耀司の手がけるY'sの83年のファッション・ショーの映像が流れている。映像をよく見ると、モデルが服のディテールが全く分からないほど早足で歩いていたり、客席を睨みつけていたりするのを発見するだろう。この時期のファッション・デザインに、有無を言わせないような勢いがあったことが伝わってくるにちがいない。この細長い廊下には、ショーの映像以外にも、コム・デ・ギャルソンが出していた雑誌『Six』や、イッセイミヤケのショーの招待状なども飾ってあり、80年代に、ファッションが中心となって、グラフィックやインテリアなど他のデザインの分野を引っ張っていったことが伝わってくる。
廊下の先には、明るく開けた二番目の展示室がある。ここは、「平面性」と「伝統と革新」という、ふたつのテーマフィールドから構成され、70年代のケンゾーから最近のアンリアレイジまで、ユニークな造形の衣服が並んでいる。マネキンと服で動線を作り出す会場構成は非常に良くできていて、特に鏡をうまく配置し、空間に奥行きを感じさせるとともに、服の裏側の細かい造りを見せるという実用的な機能も持たせている。彫刻を並べるような服の扱いは、着る服として眺める視線と、造形物として観る視線の、両方を満足させてくれる。服が、自分のイメージを作り出すための道具だけではなく、見て楽しい立体造形でもあることを思い出させてくれるだろう。
しかし、注目すべきなのは、実は最後の展示室だ。ここでは、最近のブランドの服が中心に展示されており、そこまでの展示が衣服の造形的な面白みを見せていたのにたいして、ファッションという「行為」の根本的な意味を問いかけるような構成になっている。90年代以降、アニメなどのサブカルチャーと急速に接近したファッションが、時代や人々といかに関わったかが映像などを交えて紹介されており、社会のなかでのファッションの担う役割が、世紀の転換期あたりから振り返られ、現在と未来に向けて、あらためて問われている。「日本ファッションの未来性」というテーマは、まさに、この展示室にあると言ってもいい。
以上のようにして、本展覧会は歴史を追体験する形で構成されているのだが、ある意味で、会場を構成する意図が一貫しておらず、途中で捻れがあると言えなくもない。すなわち、前半の、服はそこに置くだけで面白みが伝わるという前提と、最後の展示室の、服には置いただけでは決して伝わらない背景があるという前提との捻れである。しかしそれは、80年代から10年代までの30年に渡って、日本のファッションの作り手が少しずつ変化させてきた認識の捻れでもあろう。そういう意味では、世代が変わっていくなかでの認識の変化までをも再現した、見事な展示と言えるのかもしれない。
ただ、現実として、コム・デ・ギャルソンや山本耀司の衣服が、いくら造形的に独自性を持っているからといって、置くだけで面白みが伝わるという前提は崩れつつある。コム・デ・ギャルソンも山本耀司も、いまや説明されないと存在すら知らない鑑賞者は増えている。そこには、歴史化され同時代性を失っていくゆえに獲得してしまった読解の難解さがある。そして、新進のデザイナーたちが手がけるブランドは、少量生産を心がけることが多いため、商業施設ですら出会うことが少ない、一般に知名度の低いものばかりである。そこには、さまざまな情報や知識をあらかじめ持っていないと解らない難解さがある。
本展覧会の主催者でもある京都服飾文化研究財団(KCI)は、75年の『現代衣服の源流』展以来、実に充実したファッションの展覧会を数多く手がけてきた。それは、ちょうど、日本のファッション・デザイナーたちが台頭していく過程と歩を合わせていたわけでもあるが、本展覧会は、これから先どのように衣服を展示していけばいいのかという、ファッションの展覧会の未来性を問いかけるものともなった。