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第55回ヴェネツィア・ビエンナーレを観て──現代アートの聖性とは?
市原研太郎
2013年09月01日号
第55回のヴェネツィア・ビエンナーレは、1973年生まれのマッシミリアーノ・ジオーニをアーティスティック・ディレクターに迎え、6月に開幕した。
イメージの強度 光州ビエンナーレから引き継がれたもの
今回のヴェネツィア・ビエンナーレ(タイトルはThe Encyclopedic Palace)の最大の特徴といえば、現在ニューヨークのNew Museumのキュレーターを務めるジオーニの企画した展覧会だろう。そこで、ここではビエンナーレのもうひとつの目玉である国別パビリオンはおいて、アルセナーレとセントラル・パビリオンを会場にした企画展について語ってみたい。というのも、ジオーニの企画展は、ヴェネツィアを含め、従来のビエンナーレとはかなり趣を異にする内容と構成だったからである。
まず、現代アートの展覧会にしては、珍しく物故アーティストが多い。参加アーティスト150名中40名弱が、すでに亡くなっている。実際、出展作品の制作年の範囲は、基本的に現在に至るまでの100年間に設定されている。また、アウトサイダーと言われるアーティスト(アートにアウトサイドがないことを考え合わせると、この呼称は適切ではない)の選出が目立った。名前を挙げれば、マリーノ・アウリティ(ビエンナーレのタイトルは、アウリティが制作した塔の題名に因んでいる)[写真1]、アナ・ゼマンコーヴァ、モートン・バートレット[写真2]、アルトゥール・ビスポ・ド・ロザリオ、その他。
さらに、アートとは別の分野の専門家が制作した作品(ユング、ルドルフ・シュタイナー、アレイスター・クロウリー、等々)、宗教的なバナー、ドローイング、絵画[写真3]、奉納品(ブードゥー教、シェーカー教、タントラ、キリスト教)、特定の個人が所蔵する収集品(ロジェ・カイヨワ[写真4]、シンディ・シャーマン、リンダ・フレニー・ネーグラー、ヒューゴ・A・ベルナツィーク、等々)が展示された。
このように、ビエンナーレの出展作品が非常に多彩なので、いつもなら100名前後である参加アーティストの数が、150名に膨れ上がったと考えられる。これらの特異な内容から、今回のビエンナーレの企画展が破格だったと形容してよいだろう。
ドキュメンタリー作品(写真や映像)が多く見られるのも、今回の特色のひとつである。2010年の光州ビエンナーレのキュレーターに指名されたジオーニは、その展覧会で「イメージ」という漠然としたテーマを具現すべく、例証となる多数の作品を精力的に陳列した。それが、ヴェネツィアにも引き継がれたことは、企画展をざっと見渡しただけで直ちに理解される。
ところで、ドキュメンタリーの場合、表現手段となるのは正確さ(ありのまま)を尺度とする再現的イメージなので、ジオーニの企画した展覧会にドキュメンタリー作品が増えるのは不思議ではない。だが、再現はイメージの使用法としてはシンプルであり、鑑賞に供するには、いささか面白みに欠けるのではと思われるかもしれない。誰でもすぐ分かる現実の月並みな風景というわけだ。
だが、ヴェネツィアの企画展には、そうした馬鹿げた先入主を覆すに足る作品が揃っていた。典型的な資料となる視覚的記録(エドゥアルド・スペルテリーニ[写真5]、エリオット・ポーター)もあれば、逆に奇異な感じを与える擬似的なドキュメンタリー写真(J・D・オカイ・オジェイケレ、クリストファー・ウィリアムス[写真6])もあるが、そのどれもが目に焼き付き、派手ではないが静かな感動を呼び起こすのだ。
しかし、なぜドキュメンタリーの素朴なイメージが、記憶に刻まれるほどの衝撃を秘めているのか? この謎が、本展の企画意図を紐解く、もっとも重要な疑問であることは間違いない。その謎の核心にあるのが、イメージの強度である(後述する)。