フォーカス
アートと空間の自由で多様な関係
多田麻美
2014年08月01日号
アートが常識を踏み越えるとき、その常識が目に見える「空間」であれば、その印象は鮮烈なものとなりやすい。「踏み越えること」そのものによって、その空間が祝祭的な意味合いを帯びることもある。
例えば、同一の空間で、来場者がそれぞれ好きな絵を描く、というのは、容易に想像ができる。だが、不特定多数の観客が、3カ月を超える長期間にわたり、広い壁や床にいくらでも自由に描く、となるとその結果はちょっと想像し難い。
また、多くの参加者がひとつのアート空間で自由に交流するというのも、よくあることだ。でも、そこで飲み食いや寝泊まりやスポーツまでしていい、となると、少し想像の域を超えてしまう。
実は、これらはいずれも北京でこの春から夏にかけて実施され、人気を集めた試みの一端だ。チャレンジ精神と遊び心で常識や既成の関係を軽々と打ち破ったプロジェクトの数々は、現代社会における個人と空間や環境の関係、人と人の関係などをめぐるさまざまな思考を促した。
美術館で暮らす
今日美術館は、著名な不動産デベロッパーが北京のCBD地区に設立した私立美術館。その最大の展示ホールでこの春、厲檳源(リー・ビンユアン)の「誰的夢(誰の夢)」プロジェクトが7日間にわたって行なわれた。厲は昨年、夜のストリーキングでネットを賑わせたアーティスト。トンカチを別のトンカチで割るという行為を161回繰り返した「死んでも愛が必要」など、体を張ったパフォーマンスを得意としている。インスタレーションも手掛け、一見荒唐無稽な現象や関係のなかに独特の皮肉や意味あいが感じ取れる作品が多い。
厲によれば、今回の試みは「予算ゼロ、美術館側がスペースのみ提供」という条件でスタート。実際、展示ホールにあったのはいくつかの睡眠用マットばかりで、一見、彼の作品に見えるものも、実は他の作家が置いていったものだという。一方、隣接する展示室は、飲み食いしたり、雑誌を読んだり、メッセージを残したりできるスペースだ。
開催期間中、参加者は会場の中でいくら寝泊まりしても構わない。筆者が足を運んだのはオープニングから5日目だったが、30人前後とみられる参加者は、広い展示ホールで横になったりバドミントンをしたり、食事に出たりして、それぞれ思い思いに過ごしていた。外出も自由で、Wi-Fiもできる。厲によれば、子守りをする人、商談や雨宿りをしに来る人、音楽を聴く人など、さまざまな参加者がいるという。
参加者を知人だけで固めないため、開幕前は道端でビラが配られた。厲に参加者の内訳を聞くと、統計はとっていないのだとか。「作者は計画し、過程を眺めるだけ」を原則としたため、来場者の背景はよくわからないが、「ネットでも呼びかけたため、遠い地方都市からの参加者もいるようだ」とのことだった。
目を閉じて見るアート
筆者も展示ホールで横になったり、他の来場者とおしゃべりをしたりしてみた。いかにも美術館らしい、広々としたホワイト・キューブに、個々人の生の生活が持ち込まれている、というギャップももちろん新鮮だが、「何なんだ、これは」と思わせるアイディアを前に、じっくりと連想や思考が促されていく過程が「美術館の床に横たわりながら進行する」というのも、面白い体験だった。床も天井もコンクリートの打ちっぱなし。これだけ固くて広大な空間に薄いマット一枚で寝転がる経験は、収容所か避難所での生活以外では通常ありえない。
公共の空間で不特定多数の人と生活が共有されたとき、「人が本来具えている性質や他人との付き合い方などが浮き彫りになる」と厲。「人生の大半はつまらない時間だということ、人は何もしないことに耐えられない、ということもよくわかる」。
厲によれば、公共空間の一部を突然、個人の生活の場に変えてしまう現象は、中国では列車の乗り継ぎ客が集う大きな鉄道駅などで見られるものだ。移動に時間がかかる大陸ならではの光景だが、空いている場所を誰もが他の人を邪魔しない程度に自由に使い、ほかに誰が来ようと気にしない、という中国の「駅的」関係は、今回のプロジェクトでも顕著だった。
そもそも、中国では公園などの公共空間の利用の仕方に柔軟性があると言われている。つまり会場では、中国の個と公の関係の縮図が再現された、と言えるかもしれない。
そもそも展覧会のタイトル「誰の夢」は、現政権の唱えるスローガン、「中国の夢」が意識されたものだろう。国や社会が見る夢以前に、個人の夢はどうなっているのか。作品からはそんな疑問が感じられる。夢は本来なら、個人が好き勝手に見るものだからだ。
最後に厲はこう語った。
「これまで、目を開けて見るのがアートだった。でも、目を閉じて見るアートもあるんです」。