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椹木野衣インタビュー:現代美術をめぐる言語空間の現在──シミュレーショニズムから後美術まで

椹木野衣/松井茂

2015年04月15日号

 2015年3月、『後美術論』(美術出版社)と『アウトサイダー・アート入門』(幻冬舎新書)を相次いで上梓した美術評論家、椹木野衣氏。その旺盛な著述活動は常にわれわれを挑発している。その一方で、『後美術論』刊行直後に、美術出版社が民事再生法の適用を申請したことに象徴されるような、美術をめぐる言説の場の大きな地殻変動が明らかになった。美術をめぐる言語空間の現在と自著刊行の背景について聞いた。


左:『後美術論』(美術出版社、2015年)  右:『アウトサイダー・アート入門』(幻冬舎新書、2015年)

編集者の使命

──『美術手帖』第15回芸術評論募集のパーティーで、椹木さんが入選者に「良い編集者に出会って欲しい」と述べたということを伝え聞いたのですが、この真意は?

椹木:著述家としてやっていくというのは、勝手にブログに書くのとは違って、必ず編集者という存在が最初の読み手としているわけです。同時に彼らは校閲者でもあって、基本的に共同作業だと考えています。最終的には著作者の名前で出るわけだけど、それまでに複数の異なる役割を併せ持つ他者の目に触れることが必要です。批評といえども、本という社会的な生産物を目指すならば、一生ブログに書き続けるというのならともかく、良い編集者にめぐり会えなかったら続かないのです。
 たとえば、『後美術論』と前後して出した『アウトサイダー・アート入門』は、僕にとって初めての書き下ろしですが、逆に言えば、これまでの書籍はすべて雑誌などに掲載された文章をまとめたものなんです。だからすべてに締切があって、あらかじめ枚数の指定がある。媒体こそ、月々だったり隔月であったりしても、そこには必ず編集、校閲、ゲラの手直しがある。連載なら最低でも再校までは見るし、書籍にするまでに誤植が見つかれば訂正をストックしておき、本になるときもう一度ゲラにして、さらにいま一度校閲が入って、文字組も変わります。それを新たな目で僕と今度は別の編集者がじっくり読んで、初校、再校、三校、念校、試し刷りまでを経て、ようやく世に出るわけです。そういうプロセスからして、同じ文章でもブログなどとはまったくの別物なんです。これは本当に比較にならない。本なんていう面倒なものは出さないというのなら話は別ですが、本を出さない批評家というのは、僕にとっては死んでいるも同然です。著述家として活動していくというのは、こういうプロセスの中に身を置くことで、実はそこにはほとんど「私」はいないんですよ。そんなものが過剰にあったら批評家として世に身を曝せない。僕はこのサイクルが、著述家にとってどうしても必要となる条件だと考えています。そして、そのすべてに立ち合ってくれる編集者がいなければ、批評家としてやっていく道は無いとも思っています。
 その意味では、人によって感覚も違うんでしょうけれど、僕にとってはやはりtwitterやブログでは批評の活動たりえない。即時的なやりとりはあるかもしれないけれど、なかなか生産的な議論にはならない。多くの場合、感情的なやりとりの応酬になるだけです。雑誌のように読み捨てられる「もの」でさえないわけです。

──twitterやブログは読み捨てられているといえませんか?

椹木:読み捨てられさえしなくて、ずっと残っているでしょう。読み捨てるということは、文字通りゴミとして捨てられるということですから。twitterやブログに残された文章は捨てられることさえできない。にもかかわらず、しっかりとした編集や校正はなされない。本当は後に残るものほど編集の手が加えられなければならないのに。
 僕は、読み捨てられることには馴れているんですよ。でも、どうして読み捨てられる文章が書けたかというと、活字を載せるメディアとしての雑誌がたくさんあったからです。僕が物書きとして文章を書き始めたころ、今と違って大手出版社の女性誌にはたいていそこそこの批評を書けるアート欄や文化欄が必ずあって、そこで月々の展評を載せることができた。しかも、それ相応の原稿料を出していましたから、とても助けられた。それが月に何本もあったから、たいへんだったけれども、編集という社会的な行程の厳しさには鍛えられました。むろん校閲も通るし、いろいろな意味で厳しい目が光っているので。逆に言えば、読み捨てられるからこそ取り返しがつかない。だからこそ一文たりとも無駄にできない。ところがブログやtwitterでは、ネットのなかに延々と残ってしまうにもかかわらず、感じたことをなんの省察もないままそのまま書いてしまう。見る側はそれが面白いんでしょうが、取り返しのつかない感情的な反目も生み出してしまう。それを批評とは呼びませんよ。読み捨てられ、書き捨てられる文章だからこそ、社会的存在としての「活字」なのであって、そうであれば、そこには必ず編集という一定の行程が必要なのです。


椹木野衣氏

──私からみると、椹木野衣は、強烈に思想的な主張を持って、時代の節目毎に決定版のような書籍をまとめているようにみえます。『シュミレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術』(洋泉社、1991年)という処女作からそう思っているのですが、この本の登場の経緯、つまりは、批評家・椹木野衣の登場と編集者の関係は?

椹木:僕には、美術批評家になろうという意識はまったくなかった。そもそもあの本の半分はもっぱら音楽についての話ですからね。なにかの加減で、そのまま音楽評論家になってしまっていてもおかしくなかった。たまたま美術のほうに僕の書くものの引き手があったというか、当初は、そちらの方面から編集者が投げてくるボールを打ち返していただけですね。その頃は、本を出すことになるなんて夢にも思っていなかったですから。
 記憶では、僕に最初に原稿の依頼をしてきたのは、それこそ現在のartscapeで編集をされている荻原富雄さんでした。そのころ僕は『美術手帖』の編集部にいたから、ネットもない時代なので、新しいアートの動向が日夜、編集部のデスクに届いていた。僕はそういう動きを紹介したくて、でも、ニューヨークの最新の動向として出てきた「ネオ・ジオ」なんかは当時、書き手がまったくいなかったものだから、部内原稿として書いたわけです。でも、それでは説得力がないということで、編集長の了解を得て、椹木野衣という名前を1分ぐらいで捻り出した。本当に適当につけたもので、二度と使わないだろうと思っていました。
 そんなこんなで「メタル・メタフィジクス 乱調金属の存在論」(特集「マシーン・エイジ 美術機械の疾走」『美術手帖』1988年5月号)というのを書いたとき、荻原さんから電話があり、『季刊都市』II(1989年)に「スキゾフレニック・サーカス 快楽のための消費と滅裂」を寄稿することになりました。しかも、そこで編集委員をしていた浅田彰さんが、僕にとってはある意味、たいへんレベルの高い編集者だった。創造的な指摘をしてくるし、校閲者としてもたいへん厳しい。そういうのに応えようと書いた先の文章が『シミュレーショニズム』の原型になったんです。そしてさらに、それを読んだ上野俊哉が、洋泉社の編集者に僕を紹介して、そうこうするうちに本にまとまっていったわけです。その頃の僕は美術批評家としての自覚はまったくなかった。


『シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術』(洋泉社、1991年)

美術をめぐる言説の変遷

──美術批評家と明確に意識したのはどのタイミングだったんでしょうか?

椹木:そうですね。いくつかのプロセスがあったとは思いますが、明確に美術批評家としての自分を意識したのは、やはり『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)を書いたときですね。直接的には阪神・淡路大震災(1995年1月17日)とオウム真理教の地下鉄サリン事件(1995年3月20日)がきっかけで、自分が日本という「悪い場所」に縛りつけられていて、そのなかでしか書けない、書かないという認識を持ったというのが大きかったと思います。単にいい文章を書きたいとかではなく、そういうなかかから生み落とされて来た美術批評という流れの末裔に自分もいるのだと気づいたわけです。つまり、歴史に刻まれてきた美術批評という形式を借りて、そのなかに自分自身が入り込み、同時にそのプログラムを組み換える。言ってみれば、ガン細胞のようなふるまいで、宿主の命運を変えてしまおうと。つまりは、シミュレーショニズムの論評ではなく、その実践だったわけです。同じ美術批評のことばで美術批評というシステムに免疫不全を起こすというか。それまでは音楽について書けば音楽批評家、映画について書けば映画批評家みたいなことで構わないと思っていたわけですが、それをはっきり撤回して、それからは何について書こうが美術批評家として名乗ることにしました。

──オウム真理教がきっかけというのは具体的にどういう意味でしょうか?

椹木:主要なオウムの顔ぶれがほぼ同世代だったということもあって、キリスト教と原始仏教とを表層的にサンプリングするとか、アニメの形式を使って偽史としてリミックスするとか、やり方がほとんどシミュレーショニズムだと思ったんです。僕はオタクでもなんでもなかったけれども、やり方が完全に同じだと思った。『シミュレーショニズム』を読んで、既存の宗教をバラバラに壊して繋ぎ直したのだと言い出されても、おかしくないとさえ思いました。そして、これをダメだと言う論拠も無かったことです。


『日本・現代・美術』(新潮社、1998年)

──そして論拠を戦後の美術に求めたわけですね。

椹木:それで、そのような自分の言説がどこから生まれたのかについて問うために、戦後の美術批評を読み直しはじめました。その原点にはむろん、瀧口修造や小林秀雄がいるわけですが、戦後、最初に出て来た新しい第一波が針生一郎でした。その後、1954年の芸術評論募集で東野芳明が登場し、翌年に中原佑介がやはり一席を獲って、いわゆる御三家となった。このうち、純粋に美術畑から出てきたのは東野だけで、針生はドイツ文学、中原が量子力学というふうに、なんらかの外部性を持っていた。そこで僕は、美術批評にとっては、美術そのものに対してなんらかの外部性を持つことが成立の条件なのだ、という思いを強くした。つまり美術批評には美術を支えている美術史や美学への批判が求められているわけで、美術史や美学に立脚して書くだけでは美術批評にならない。それこそゲーデルの不完全性定理じゃないけれど、美術の素養だけでは、美術からの出口がない。つまり、批評行為としては自己言及だけになってしまう。だから美術に対する外部性を得るためには、つまり美術批評たりえるためには、学術研究者としての資質だけではダメで、どこかに外部性を担保しないと批評がもたない。もしくは、その人自身でなくても、たまたま社会がある沸騰状態に置かれたとき、普段見えないものが見えてくるというかたちでの批評的余地があることにも気がつきました。
 例えば『シミュレーショニズム』で取り上げたハウス・ミュージックなどでも、その担い手であったゲイ・ピープルたちがエイズでバタバタと倒れるようになって外部性が高まったとき、初めてその批評性が浮かびあがったわけです。そのまえは、一風変わった新奇なダンスミュージックでしかなかった。そういった意味では、95年に震災やサリン事件が起こることで、「戦後」という場所の不気味さ、すなわち批評性が僕のなかで唐突に浮上し、それまでと違うものとしての美術が見えてきたのです。こうした動機付けは、針生と中原が美術に対して持っていた外部性、他者性から気づいた部分も大きいと思います。
 しかし、『日本・現代・美術』は、日本の戦後のような「悪い場所」では正史が成り立たないという話なわけですが、これを「正史」として読む人が出てきてしまった。それどころか、下手をすると教科書みたいに読まれたりするわけです。それは僕がまったく予想しなかったことでした。でも、そうなる理由は簡単で、結局誰も本を書かないからなんですね。誰かが、「いや正史はある」と返してきて、美術史家なりなんなりが書いてくれればいいのですが、そういうのは結局出てこない。だから今度は自分の本が「正史」になるのを、もう一度自分の手で壊さなければならない。そういうふうにして、自分で自分を壊すサイクルから次の批評的課題が出てくるのです。

──針生一郎、中原佑介、東野芳明といった世代以降の批評家は、たしかに著作がほとんど無いという印象をうけますね。

椹木:宮川淳と石子順造はかなり活発に本を出していましたし、画家だけど谷川晃一にも重要な批評集が少なからずあります。いまでは読めないものが多いけれど、藤枝晃雄にも多くの著作がある。本が出せたというのは、彼らの言説が読者を想定した書きものになっていたということです。つまり『美術手帖』なりなんなりを媒体に、商業出版物を通じて流通していたから、なんだかんだ言っても、一冊にまとめれば、読み物として成り立っているんです。ところがこれ以降、書き手の活動のベースが、税金でつくられる展覧会の図録になってくる。これは一般の書店には流通しないものです。要するに商業出版物として金銭を対価に世の中を流通するものではない。税金を費やしたことの成果報告として提出して終わりという性質のものなんです。
 こうして近現代の美術を扱う美術館がいっせいに開き始めると、そこで専門の研究や調査にあたる学芸員が必要になってくる。例えば、多摩美闘争を経て針生一郎、中原佑介は大学を去ったけれども、残った東野芳明や秋山邦晴が中心となって「芸術学科」が生まれ、そこに、峯村敏明やのちに建畠晢らが籍を置くようになると、彼らの弟子筋にあたる若い書き手としての学芸員たちは、商業出版物ではなく成果報告書としての図録が主な執筆の場となっていく。
 そうすると、一方では直近の作品や存命作家の研究が進むのでそれはよいとして、他方で美術をめぐる言説はどんどん社会から乖離していく。そこには編集者もいないから読者を獲得できないし、そもそもが大学の紀要のようなものなので世間には出ない。しかも、口実としてのバイリンガルが必須のものとなり、紙幅も労力もそのために割かれるようになっていく。けれども、そもそもこの英文を誰が読んでいるのか。おおかたは申しわけ程度のものに留まってしまっていはしないか。こうして1970年代なかば以降、1980年代からバブルの時期に掛けて、美術館の時代、キュレーターの時代とはやし立てられる一方で、他者に働き掛ける美術の言葉はどんどんやせ細っていった。そうして気が付いてみると、美術館は慣性的な財源不足に悩まされており、美術館の新築は全国に行き渡って、新規の学芸員は必要とされなくなり、振り返って市場をみると、美術の言説を書けるような雑誌はあらかたなくなっていた。こうした傾向は結局、現在まで続いていると思います。とかく、批評の衰退みたいなことが言われるわけだけれども、新しい書き手が出てこないのも、そういうことと繋がっていると思いますね。いくら図録に文章を寄せても、それは「読書」の対象にはなりませんから。編集者を最初の読者と考えれば、編集者がおらず書き手だけがいても、結局そこには、それに続く読者もいないのです。

──こうした状況を考える上で、日本の場合は新聞社というのも、話をややこしくしている印象がありますね。

椹木:「読売アンデパンダン」展(1949〜63年)は『読売新聞』だし、「東京ビエンナーレ 人間と物質」展(1970年)は『毎日新聞』の主催です。新聞社にとっての文化欄はいわば文化をめぐる社説で、それを書いていたのが瀧口だったり、針生、中原、東野、あるいは瀬木慎一だったわけです。だから、そこには相応の論争性もあったし、一般への浸透力もあったと思います。逆に「読売アンデパンダン」展を仕切っていた海藤日出男のような裏方の記者のほうが実は発言力もあったし、十分に価値判断もできる人だったけれども、だからこそそこはあえて身を引き、むしろ外部の批評家に書かせていたわけです。それがある時期から、記者自身が署名原稿を書くようになってきた。それはそれで当然の仕事だからよいのですが、こと美術に関して言えば、新聞社には自社が主催する展覧会がたくさんあるし、そういう展覧会に対して社員として批評に徹するには無理がある。当然、他社の展覧会も持ちつ持たれつで厳しくは書けなくなる。海藤さんという人は、こういうことがわかっていたのだと思います。つまり、自分が新聞記者であるということに対して批評的になれた。その意味で結果的に批評家たりえた。
 いずれにせよ、こうして一方では美術館のカタログに言説の場が移り、学芸員がこれを担うようになった。他方、これとほぼ時を同じくして、新聞では記者が批評ではなく紹介的な記事を書くようになっていく。これらは双方ともに批評的な外部性を持ちえないので、それが盛んになればなるほどの、やがてそれが現在の状況を招くきっかけになっていったわけです。
 こうした、一見しては開かれているようで、その実、閉鎖的な状況に対して、まったく別の角度から、しかも商業ベースで新しい批評を展開し直したのが、ニューアカデミズム(ニューアカ)だったと言えるでしょう。ニューアカは、「アカデミズム」とはいうものの、実体は完全に商業ベースで、本を「売ってなんぼ」の世界だった。美術をめぐる言説が、しだいに商業ベースから税金ベースになっていったのに反発するように、ニューアカは資本主義を礼賛したし、先の御三家の直系とは誰も考えていなかったけれども、彼らの書いたものを総計すると、美術批評という点では実はたいへん生産的で、社会へ向けて積極的に言葉を投げていた。その中心となった浅田彰にせよ、伊藤俊治にせよ、中沢新一にせよ、実は美術についての評論だけでも、相当の分量にあたるのです。当時の僕はいわばポスト・ニューアカ的な若手のひとりとして、彼らが立ち上げた商業誌を媒体に、書き手として名乗りを上げたわけです。だからこそ、自分が美術批評家だという意識は希薄だったし、美術業界からそう認知されていたわけでもなかった。しかし、これではいつまで経っても美術にとっても外部なだけで、その外部性が批評に転換されないと感じたから、95年という「悪い年」をきっかけに美術批評家として自己を規定し直し、『日本・現代・美術』を書いた。これは本当に直球ど真ん中の主題なので、それが美術批評であることを誰も拒めない。いわば自他共にそういう場所に追い詰めたのです。

未来としての「後美術」へ

──椹木さんにとって、磯崎新の言説はどういった影響がありますか?

椹木:磯崎さんは建築家ではないし、かといって反建築家でもなく、彼は端的に言えば、大芸術家でしょう。ちっぽけな作品としての建築なんて残らなくてもいいと思っているんじゃないですか。そもそもが瀧口修造に声をかけられ、「孵化過程」(「現代のイメージ」『美術手帖』増刊号、1962年4月)という一枚のコラージュ作品で世に出て、都市計画とか建築家を偽装しながら、実際には一貫してアナーキズムの芸術家として活動してきたわけです。どこまでいっても不可能性に留まった60年代の反芸術の、もっとも洗練された、もっともダイナミックな21世紀の担い手ですよね。安藤忠雄や伊東豊雄はやっぱり建築家というしかないと思うけど、磯崎さんはもっとスケールが大きい。それは時が進むにつれてわかってくると思います。もしかしたら、僕にとっていちばん影響が大きい存在かもしれない。やっぱり『建築の解体』(美術出版社、1975年)という標題には圧倒的なインパクトがあったし、『空間へ』(美術出版社、1971年)の冒頭に収録されている「都市破壊業KK」(『新建築』1962年9月号)なんかは無意識のレベルまで血肉化したんじゃないか。僕が解体とか破壊っていうときに、あの文章の力はかなり深いところまで入り込んでると思う。


左:『建築の解体』(美術出版社、1975年) 右:『空間へ』(美術出版社、1971年)

──「未来都市は廃墟である」という「孵化過程」の言葉に、私は『後美術論』にいたるまでの椹木さんの原風景を感じます。つまり、廃墟への愛憎半ばするような危険な接近に、椹木さんのある種の論拠みたいなものがあるように思うのですが?

椹木:予測もしていない事件とか事故があったとき、そういう価値の瓦解に対して、批評家としての自分が言葉をどう当てていくか? どうやって世界を保存するか? そう考えると、廃墟にとっては解体ではなく、実際には修復のほうがたいせつだし、難しいことだし、もちろんやらなければならないことなんですね。
 例えば、『シミュレーショニズム』が出版された1991年は、米ソ冷戦の終結直後です。ちょうど時代の裂け目でした。代わってアラブ世界やバルカン半島が戦場となり、いまのISILにつながる最初のきっかけとなった湾岸戦争が始まった時期です。今と比べても、ものすごい価値の転換があって、89年から91年にかけての、「これからどうなっちゃうんだろう?」という切迫感に言葉で対処しようとしたわけです。その後、先の95年、それから2001年のアメリカ同時多発テロ、さらに2011年の東日本大震災と、場所も質も違うけれど、実はわりと頻繁に大きなショックが世界を襲っていて、そうすると、以前のままの言説ではどうしても無理があるので、言葉を作り直し、取っかかりを作って、そのギャップを書きながら埋めていくわけです。その意味でも解体よりは修復というのが近い。そうすると、時代が崩れ落ちる渦中で書くから、どうしても試行錯誤の繰り返しとなり、結果的として「フランケンシュタイン」の怪物のような文体になっていく。それが松井さんの言う廃墟的なビジョンを呼び醒ますというか。
 だから、冷戦解体、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、アメリカ同時多発テロ、東日本大震災、福島原発事故とひとことで言っても、批評的な修復の形状はそのつど変わってくる。しかも修復にはどのケースでも使えるというような、決まりきった汎用性などないから、事象ごとに文体も作り直さないといけない。その作業の総体が、廃墟への危険な接近、という姿勢の一貫性として見えてくるということなんじゃないでしょうか。

──『後美術論』のなかで、枝葉末節かもしれませんが、私が強く印象に残ったのが、第10章の「足立正生・赤瀬川原平・中平卓馬」というチャプターで、ここでは「幽閉」という言葉がキーワードになっていますよね。

椹木:それはやっぱり「悪い場所」の言い換えですね。僕は美術批評を書いているようで、その実、日本語に幽閉されているわけだから、むしろ書かされているというほうが近い。言い換えれば、常に日本語に幽閉されているという自己意識に基づいて書いているので、そこには異様な重苦しさもあるんだけれども、自分が日本語に幽閉されていることに気づいていなかったり、あるいは気づいてもそれは無いことにして書くより、はるかに自由だと思うんです。僕は書き手の自由というのは、そういうところにしかないと思う。
 この3人は、活動した分野こそ映画、美術、写真と異なるのだけれども、この幽閉による自由という逆説においては、相通ずるものがある。とはいっても、パレスチナへの遁走、最高裁での有罪判決、急性アルコール中毒による記憶喪失と、いずれをとっても内面的な苦悩というのは大変なものがあったと思います。でも、彼らが残してきた仕事を見るにつけ、既存の価値の尺度からは見放され、「業界」から追放はされていたかもしれないけれども、例えば、赤瀬川原平のほうが、高松次郎より表現者としてはるかに自由なのです。高松はすぐれたコンセプチュアル・アーティストですが、裏返せば欧米の美術の文脈で充分に解釈できる。でも、いまさらそれをありがたがっても仕方ないでしょう。赤瀬川のほうがずっと柔軟で、あらゆるメディアを通じて、考えられるかぎりの実験を試み、そのうえ神出鬼没で、普段は見えない制度の根幹をずっと突き続けた。それは中平卓馬だってそうです。記憶を失うことによって、逆に主体なきカメラそのものになったわけですから。結果的に、彼ほど写真そのものに極限まで迫った人はいない。森山大道も荒木経惟も、そこまでは自由じゃない。足立正生も、やっぱりいまの商業映画のシステムから考えたとき、はるかに自由ですよ。ある意味で、この3人の流浪や苦悩や挫折は、歴史にとっての震災や事故みたいなものだと思うんです。彼らは、そういう機会を得て不可避的に自由になったんだと僕は思う。

──最後に『後美術論』の目論みを教えてください。

椹木:簡単に言えば、アートという概念を書き換えようとしてるわけです。100年ぐらい経って、いわゆる美術史と呼びうるものが今と同じように存在するとして、20世紀から21世紀を振り返ったとき、そこに出てくる名前は、マイケル・ジャクソンやオジー・オズボーン、クラフトワーク、マドンナといった「アーティスト」たちになるのではないかと僕は考えています。逆に、ゲルハルト・リヒターとかガブリエル・オロスコとか、そういう人たちの名は、ほぼ忘れられているんじゃないか。われわれがルネサンスを振り返るとき、レオナルドやミケランジェロを研究するように、総合芸術家としての「彼ら、彼女ら」が研究の主流になっているのではないか。そんな仮説に基づいて書いているのです。

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