フォーカス
Take me (I’m yours) 展
栗栖智美
2015年11月01日号
1995年春、ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーで行なわれたTake me (I’m yours) 展が、20年の年月を経てパリで再び開催された。昨年リニューアルオープンしたばかりのパリ貨幣博物館を会場にした本展覧会についてレポートしたい。
フランス人アーティスト、クリスチャン・ボルタンスキーとスイス人キュレーターのハンス=ウルリッヒ・オブリストがオーガナイズし、ロンドンだけでなく世界中のアート関係者を仰天させた展覧会が20年前のTake me (I’m yours) 展である。「展示作品を触っても、持ち帰ってもOK」とした前代未聞の展覧会だ。90年代のアートシーンにおいては、まだまだ作品はギャラリーや美術館に鎮座し、それを観客が眺めるというスタイルが一般的だった。作品は永遠にその形をとどめるもので、この展覧会のように、観客の手によって作品の形が変わってしまうものは当時としては新しいコンセプトであった。フェリックス・ゴンザレス・トレスがキャンディを持ち帰ってもらうインスタレーションを発表したのに端を発し、観客が参加することで成立する展覧会が増えてきた頃だったと思う。当時大学生だった筆者も、海外で行なわれたこのような新しいスタイルの展覧会に興奮した日々を思い出す。
20年の年月を経て、日常生活とアートの垣根は低くなるどころか境界さえ見えなくなることもしばしばあり、参加型展示、同時多発的展示、さまざまな展示が世界中で行なわれるようになった。現代アートとは何なのか、20年前よりはるかに定義しがたくなっているように思う。そんな2015年に、20年前の、いまとなってはよく見かけるコンセプトの展示を再び開催することにどのような意味があるのだろう、それが今回の展示を訪れた理由だ。
ボルタンスキーとオブリストのキュレーション、前回も参加した20人近くのアーティストが再び顔を揃え、展示作品を触り持ち帰るというコンセプトであるのは、20年前とまったく同じである。異なるのは、新規のアーティストが20人ほど増え、会場が18世紀の装飾を残す豪奢なパリ貨幣博物館になったことくらいであろうか。ボルタンスキーは相変わらず古着の山をつくり、ダグラス・ゴードンは「私とディナーできる権利」の抽選を実施(20年前はデートする権利だった)、フェリックス・ゴンザレス・トレスはポスターの山とキャンディを床一面に広げ、ギルバード&ジョージはまたしても配布用バッジをつくるなど、展示内容は20年前とさほど変わらず、この手の展示に慣れてしまった2015年の観客にしてみれば、1995年の開催時のような驚きはない。
しかし、展覧会の展示内容が20年前と変わらなくても、この展覧会で重要な役割を担う観客がまったく違う視点を持ってこの展示に参加していることが興味深い。入り口で配られる紙袋を手に、物怖じせずに作品に触り、選び、袋に入れている。積極的にスタッフに質問をし、自分のバッグの中から適当な所持品を探し、物々交換をする。カールステン・ホーラーの天井から一粒ずつ落ちてくる薬のカプセルの山に裸足で入ろうとする観客がいるかと思えば、観客が新聞の山から気に入った記事に「Lost children」や「More Poetly in needed」と書かれたハンコを押し壁に貼るというグスタフ・メッツガーの作品では、Facebookのいいね!の紙バージョンみたいだと言う観客がいたりする。セルフィーがはびこる現代において、フランコ・ヴァッカリの証明写真用ボックスは、20年の間に証明写真からプリクラへと用途が様変わり。撮影後壁に貼られた観客の表情もまた、赤の他人に見られることを当然意識した表情ばかりなのは、やはりFacebookの影響だろう。ファストファッションが世界を席巻し洋服を大量に購入している現代では、ボルタンスキーの古着の山を見る観客の目はシビアである。洋服を家に持ち帰る人はあまりおらず、難民キャンプに贈るべきだという声も聞かれた。ローマン・オンダックの作品は、観客同士で物々交換をしてもらうもので、私もバックの奥に埋もれていた精油瓶を切符と交換し、私の精油瓶は年期の入った飴缶を差し出したマダムの手に移って行ったのだが、その部屋に足を止めた観客が皆、バッグの中から「面白いもの」を積極的に置いて行った(最も風変わりなものは「催涙スプレー」だったという)。情報は至る所に山ほどあり、それを自分がどのように受け取るか常に考えなければならない世の中に生きる私たちは、展示会場でもまた、積極的に楽しみをみつけようと大胆になっていく。
1995年の展示を見ていないので断言はできないが、おそらく2015年の展示に来ている観客の方が、展覧会の主役を堂々と演じているのではないかと思う。ここにある展示作品には、もはや目新しさはなく、そこにあるキャンディの一粒や一枚の古着が高価なアート作品だと思う人は少ないだろう。それよりも、目の前にあるキャンディや古着という「きっかけ」と、どのように関わっていくかを考えながら進む観客がいてこそ、この展覧会の意義があるのだ。ものが溢れる現代において、われわれは考え、選択し、他人とシェアし、上手に消費し、そして無意識に楽しんでいるのではないか。20年前の観客に比べて、作品について観察し、美術史的意義を考察することは少ないかもしれないが、こうしたらより楽しめ、こうしたらこの面白さが伝わるといった、自分本位の鑑賞法を編み出しているのが2015年の観客だ。
観客の介入によって作品の形は変貌し、形がなくなってしまったとしても、その形跡さえもアートである、というコンセプトの本展示。そのコンセプトは20年前もいまも変わらないとしても、20年の社会のめまぐるしい変化を実感せずにはいられなかった。時代を超えて、同じ作品を前にした時の感覚の違いは、個人の経験値の違い以上に、社会的変化もあるのだなと気づかされる。20年前は、おそらくこのような展覧会は美術愛好家の間で話題になっていたにすぎず、自宅の物置に大切にそのときの「作品」の一部がいまも仕舞われているかもしれない。しかしシンプルで上質な生活を他人に見せつけることが当たり前になっている現在、ボルタンスキーの古着も、トレスのキャンディも、写真をFacebookに投稿さえすれば、直接知らない多くの他人にも展覧会の情報をシェアすることができ、「現代アートを観に行くのが好きな人」という印象を与えられる。実際に手に入れた物品は、写真を投稿してしまえば着る必要もなく、味わうこともなく捨てられてしまうかもしれない。物品ではなく「そこにいたという証拠写真」が永遠に保存されていくのだ。
本展覧会の情報はFacebookやネット映像、文化系情報ホームページ、パリの無料新聞など、ネットを中心に「面白いイベント」としても紹介され、現代アートになじみのない多くの人も訪れていた。彼らにとっては20年前の観客同様「これもアートなの?」と感じる新鮮な展覧会だったかもしれない。もし20年後にこの展覧会が開催されたなら、社会はどのように変化し、これらの作品はそこに来る人々の心にどのような印象をもたらすのか、そのときには是非足を運びたい。