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小さくとも確実な一歩:ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館
鷲田めるろ(金沢21世紀美術館)
2016年07月15日号
第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展が開催されている。企画展示部門はアレハンドロ・アラヴェナの総合ディレクションのもと「Reporting from the front(前線からの報告)」というテーマで実施されているが、国別参加部門はそのテーマに縛られるものではない。日本館は、山名善之がキュレーションし、「en[縁]:アート・オブ・ネクサス」をテーマに12組を紹介した。開幕よりすでに1カ月半が経過し、日本館が60を超える参加国のなかで、最高賞の金獅子賞に次ぐ特別表彰(Special Mention)を受賞したこともあって、日本の各メディアでもすでに報道されている。ここでは、建築展をつくるキュレーターとして、また、来年の第57回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館のキュレーターの視点から、今回の日本館について論じたい。
「3.11以後の建築」展との共通点
今回の日本館は、人々が主役となって、いかに共に生活を成り立たせるか、既存のモノを組み替えてゆけるかに焦点をあて、日本の建築の新しい方向を示しているという点で、多いに共感を覚える内容であった。私は2014年、金沢21世紀美術館で「3.11以後の建築」展を企画した。ポンピドゥー・センターのフレデリック・ミゲルーが企画した戦後日本建築の展覧会「Japan Architects 1945-2010」を金沢21世紀美術館で開催することになり、これを補完する目的で企画したもので、ゲスト・キュレーターを五十嵐太郎と山崎亮に依頼した。ミゲルーは2010年までを対象としていたが、2011年の東日本大震災は建築家の意識にも大きな影響を与えており、2011年以降の最新の状況を示したいと考えた。ミゲルーは、かたちとしての建築に着目し、それをオリジナルのドローイングや模型を通じて示そうとした。だが、日本の新しい建築は、かたちの新奇性を建築家の個性的な自己表現として示すよりも、自然との関係や、使う人との関係に重きを置き、使う人の要望をまとめるという設計の前段階のプロセスにも工夫を凝らしながら、社会的な課題を解決するための手段のひとつとして建築に取り組んでいるように感じられた。五十嵐はこのような傾向を「リレーショナル・アーキテクチャー」と呼んだ。今回の日本館は、このような「3.11以後の建築」展と共通の、新しい日本の建築の方向性を示している。
実際、2つの展覧会は、テーマも出品建築家も重なっている部分も多い。日本館は、「人の縁」「モノの縁」「地域の縁」を3つのサブテーマとして設けたが、これは「3.11以後の建築」展の内の2つのテーマ、「地域資源を見直す(セクション5)」と「住まいをひらく(セクション6)」を抜き出したものとも言える。「地域の縁」のテーマで紹介された2組、BUSとドットアーキテクツは、「3.11以後の建築」展でも出品している。
人の縁
逆に両者の違いは、「3.11以後の建築」展が金沢での開催を意識して、地方における取り組みを重視したのに対し、今回の日本館では、都市部の事例を多く紹介している点だ。「人の縁」のほうは、重なっているのは成瀬・猪熊建築設計事務所のみで、《ヨコハマアパートメント》、《食堂付きアパート》、《不動前ハウス》など都市部のシェアハウスの事例を多く紹介している。このことは、日本の地方の特殊な状況を、建築プロジェクトの背景として伝えるという困難さを回避し、分かりやすく建築家の実践を伝えることに貢献していた。なかでも、周辺のコンテクストの説明は省いたうえで、大きめの縮尺でなかの生活感まで細かく作り込んだ模型を展示した《ヨコハマアパートメント》(西田司+中川エリカ)と《LT城西》(成瀬・猪熊建築設計事務所)は効果的な展示になっていた。ただし、これらの模型が示しているのはシェアハウス内の「縁」であり、外とをつなぐ「縁側」の要素は切り捨てている。もともとが閉じられた《LT城西》はともかく、開放的なピロティをもつ《ヨコハマアパートメント》は別の見せ方もあっただろうが、ここではそれを切り捨てたことが展示としては、うまく作用した。一方、同じシェアハウスでも、外部とのつながりを見せるという、より難しい課題にチャレンジしたのが《不動前ハウス》(常山未央/mnm)だ。「縁側」にあたる部分を1/2程度のスケールで会場内に再現し、それに映像のプロジェクションを行なったが、これは失敗であった。内と外をつないでいる重なりの部分が「縁」であるにも関わらず、その「縁」の部分のみを抽出しても伝わらない。《食堂付きアパート》(仲建築設計スタジオ)は周辺も含めて模型化したが、模型の縮尺が小さくなってしまい、中途半端に終わった。
モノの縁
もうひとつの「モノの縁」は、要するにリノベーションのことである。それを「モノの縁」と言い換えて、ほかの2つとつなげたところに、この展覧会テーマの妙がある。だが、このセクションでは、説明不足がマイナスに働いている。そのなかでも、映像とプロセスの模型、実物の「モノ」をうまく組み合わせ、象徴的に屋根をかぶせて展示した《高岡のゲストハウス》(能作アーキテクツ)はうまく物語を伝えていた。また、《躯体の窓》(増田信吾+大坪克亘)は、作品自体は作家性が強すぎて私は評価しないが、大きな写真を中心とする展示は、《不動前ハウス》とは対照的に、境界面を印象的に示していた。
一方、《駒沢公園の家》(今村水紀+篠原勲/miCo.)は、敷地周辺の密集する住宅も軸組でつくった模型を展示していた。あまり見ない敷地模型で興味深かったが、説明なしには、どれが「駒沢公園の家」であるかすら分かりにくい模型である。また、添えられた写真では、建物の内部を庭のように外部化するという大胆な変更も伝わらない。展示ではなく、建物としては今回の展示作品のなかでも優れて面白い作品であるのに惜しい。403architecture [dajiba]は、長い時間に耐えたモノの魅力に頼るのではなく、ホームセンターで手に入るような特徴のない素材でも、それをモノのつながりとして等価に捉えている点に独自性があるのだが、今回の展示では説明が少なすぎて伝わらない。少なくとも、素材、プロセス、完成という3点セットの写真のまとまりをもっと明確にしたほうがよい。また、ヴェネチアの廃棄されたガラスを使ってつくったというガラスのアーチ「ヴェネチアの橋」は不要である。日本の事例を紹介するだけでも複雑なのに、展示するヴェネチアという場所のコンテクストを含めようとするのは過剰であり、ハンドアウトにもカタログにも説明がない。会場内での位置もうまく収まっていない。「縁」を重視する作家たちは、新しい展示場所での新しい「縁」を、ついつい大切にしてしまうが、ここはキュレーターが抑制を利かせるべき部分であった。《15Aの家》(レビ設計室)も参照点として展示した津波の被害を受けた倉庫の写真とのつながりが分かりにくく、空振りに終わっている。15A以内の電気で生活するというエネルギー問題への関心からつけられたタイトルと軸組を示した模型などの展示物もずれており、さらに全体テーマ「縁」とのつながりが見えにくく、印象に残りにくい。既存の部材と新しい部材の組み合わせ方が絶妙な《調布の家》(青木弘司建築設計事務所)は、モニタで次々と建物内部を映し出す映像だったが、各パビリオンでの滞留時間がどうしても短くなる巨大なビエンナーレでは、映像は不利であった。「モノの縁」のセクションは総じて説明不足である。
地域の縁
一方、「地域の縁」のテーマに含まれるBUSは、同じ映像でも、3面の壁に大きくプロジェクションし、カメラの動きの少ない超広角の映像で、空間に囲まれるような感覚があり印象に残りやすい。「3.11以後の建築」展でも同じ神山町のプロジェクトを出品してもらったが、その時の小さな白い抽象的な模型とロードムービー的なモニタによる映像の組み合わせよりも、今回の映像プロジェクションのほうが遥かによいと思われた。
ドットアーキテクツは、セルフビルドで組み立てられるように部材を小さくしたという《馬木キャンプ》を会場にも一部実物大で再現し、その中に建物の模型や、コミュニティラジオ、映画づくりなど実施したプロジェクトを展示した。建物を建てることと、地域の人の関係を生み出すためのプログラムを等価に捉えるドット・アーキテクツの特徴が直接的に現れた楽しい展示であった。
全体の展示構成
全体の展示構成は、tecoが行なっている。多くの事例を、この狭い空間にすっきりと収めた点は高く評価したい。ただし、日本館の特徴的な4つの壁を活かした3つのサブテーマの示し方は、展示物との関係が分かりにくい。入り口に入ったところには、障子のようなスクリーンに投影した菱川勢一による映像が配置されている。展示されている12組の建築の背景をなす日本の状況を示すためだろうか、東日本大震災の写真などが映し出されるが、各展示物との関係が離れすぎており、機能していない。この映像も展示に不要である。この映像と403architecture [dajiba]の「ヴェネチアの橋」を無くして空間を確保し、《調布の家》にまずはスペースを与えたうえで、サブテーマの分節を分かりやすくすべきであっただろう。また、入り口に「制作委員会」の篠原雅武の文章が、山名の文章の横に並べて掲示されているが、篠原の展覧会における位置づけが不明瞭である。展覧会制作チームの組織上の課題がこの部分に現われていたのではないか。
ピロティには、テーマ「縁」を象徴的に見せるために、縁側のようなベンチと、西洋風の窓に日本の障子を組み込んだような和洋折衷のスクリーンがつり下げられている。座るためにも機能するシンプルなベンチに対して、空間を仕切るスクリーンは恣意的なデザインが強すぎるように感じられた。一部映像を投影していたが、私が訪れた日中の時間帯は周囲が明るすぎてよく見えなかった。このスクリーンは無い方が開放的でよかったと思う。
最後にカタログについて。今回の建築展より、ビエンナーレ財団からの要請で、各パヴィリオンでの販売はできなくなり、会場内のブックショップのみでの販売となった。日本館にとっては販売しづらくなったことになり、展示とカタログを天秤にかけたときに相対的にカタログに対する展示の重要性が高まったとも言える。日本国内に販路をもつTOTO出版が、日本語も併記したカタログをオープニングに間に合わせて出版し、国内での販売も行なったことは、主催者の予算をほかに充てられたという意味で合理的な判断だったが、日本からイタリアまでの送料を誰が負担するかについては慎重に考えなければならない。なお、私が訪れたときには、ブックショップでは完売で置かれていなかった。
新しい日本の建築へ向けて
これまで指摘したような細かな課題はあるものの、他国のパヴィリオンと比べても、日本館のレベルは高かった。リサーチの提示に終わっている館も多いなかで、現在の課題に対して、小さくとも実際に建物を実現させ、具体的な実践を示している日本館は、グローバルな資本主義が席巻し、人口減少に向かうなかで、ローカルな智慧に敬意を払いながら、人々がともに生きていくための勇気を与えてくれた。特別表彰を受けるのにふさわしい内容だったと思う。若手の12組の建築家に今後ますますの活躍を期待する。