フォーカス

【プラハ】最新作『蟲』制作中!
──ヤン・シュヴァンクマイエルのスタジオをたずねて

ナガタタケシ(アーティスト)

2017年12月15日号

不思議の国のアリスを独自の脚色でパペット人形と実写を融合させて表現した映画『アリス』(1988)などで知られるチェコの現役シュルレアリスト、アニメーション・映画作家であるヤン・シュヴァンクマイエルが最新作の長編映画を遂に完成させようとしている。幸運にもその制作スタジオで、いくつかお話を伺うことができた。世界中の人々を魅了する作品群を生み出した創造の現場から、制作の裏側と気になる最新作についてレポートする。

ヤン・シュヴァンクマイエル作品との出会い


はじめに、このレポートは筆者の映像作家としての視点で書いている事をあらかじめお断りしておきたい。シュヴァンクマイエルの制作に対する態度や表現者としてどう生き抜いてきたのか、そして新作で何を表現しようとしているのかという興味からインタビューしてまとめている。
私が美大生であった1997年に、はじめて彼の映画に出会った。得体の知れない神秘的な魔術のような映像に惹きつけられ、夢中になった。

当時、アニメーションの技法を学ぶなかで、彼の動画を1コマずつ再生して分析し、自身の課題制作の参考にしていた。映画のなかでは、人間が人形のように操られ、パペット人形は人間のように演技をする。その制作手法を大別すると、ライヴ・アクション(人間による演技)、ピクシレーション(静止した人間を1コマ単位で少しずつ動かして撮影する連続写真から作るアニメーション技法)、死んだ生物の一部である「生肉」やクレイ(粘土)やパペットや操り人形を含むさまざまな造形物もしくはそれらの写真を切り抜いたものによるストップモーション・アニメーション(コマ撮り撮影)の3つに分かれる。これらが素早く切り替わる複雑なプロセスを経てそれぞれの登場人物が形成されている。作品によっては、その状況を俯瞰し、時には支配する登場人物も出てくる。そういった表現手法によって、「人生や運命を何者かに操作されている様子」が描かれている。そしてその状況を破壊しようとする反発があり、最後に悲劇的な運命と対峙するというストーリーが多い。


『ファウスト』(1994)の一部。パペット人形と人間が演じる人形が交互に登場する。視る者を日常と非日常の中間に誘う。


彼の表現手法にはもうひとつ大きな特徴がある。それは、小さい動作に対してもクローズアップして素材の質感がわかるレベルまで画面いっぱいに映し、さらに湿った効果音で動作を協調し、「気持ち悪さ」と「性的興奮」という、相反する感情が同時に呼び起こすような演出だ。実体をもたない映像から「手触り」を感じさせることで、巧みに鑑賞者の心理をも操っている。

私は20歳の頃、恩師のアニメーション作家と一緒に、初めてプラハを訪れた。ヨーロッパにおける映画撮影の要所でもあるバランドフ映画撮影所内のアニメーションを専門とするイジー・トルンカ スタジオ(以下トルンカスタジオ)を訪ねるためである。彼が『棺の家(Punch And Judy)』、『レオナルドの日記』、『対話の可能性』などの短編映画を社外監督として撮影したスタジオでもある。トルンカスタジオは、“Krátkýfilm Praha”と呼ばれる短編映画制作会社の⼀部で、そこで撮影していたイジー・トルンカだけでなく、他の監督も撮影していて、彼もそのひとりであった。彼は自分の撮りたいトピックをドラマトゥルクが承認してくれた時だけ、そこで撮っていたという。

当時のプラハの街は、観光地化が進んでいたが、人々の雰囲気は暗く、近代化からはまだほど遠いと感じられた。街中の土産物屋ではたくさんのパペットが売られていて、店員はパペットを持つとまるで人格が変わったかのように楽しげに操って見せてくれたことが記憶に残っている。社会主義時代の人々は口に出してはいけない苦しみや反発を人形によって吐露していたのではないかと思い、東欧の暗い影を感じた。

そうして、彼の作品に影響を受け、私はピクシレーションやストップモーションによるアニメーションの作家活動を始めた。しかしながら、手法や技法もしくはプラハという土地から彼の作品を紐解こうとしても、私がはじめに感じた「神秘的なもの」が何か解明できなかった。

プラハ郊外のスタジオ


2017年5月、再びプラハを訪れた。石畳の道とレンガ造りの建物による美しい古い街並みは残っていたものの、壁はグラフィティで覆われていた。土産物屋の棚からパペットが消え、その替わりにアブサン(薬草とスパイスで作られたスピリッツ)が並んでいた。中心地は近代的なビルが建ち並び、社会的なメッセージを持つパブリックアートが街中で散見された。

プラハ郊外の小さい静かな町にある彼のスタジオに到着した。そこは使われなくなった市民劇場で、『ファウスト』のほとんどのシーンをこのスタジオで撮影したそうだ。重たい扉の向こうで、彼は愛犬と一緒にいて私たちを迎え入れてくれた。以前のスタジオから引っ越した理由は、周囲の環境が観光サイトになってきて落ち着きがなくなってきたからだという。最新作『蟲』の撮影が終わったばかりということもあり、大道具小道具が入り乱れているものの、静けさにつつまれていた。



撮影の中心となる舞台空間


左:出演者の衣装 右:流血のためのダミーボディと『悦楽共犯者』(1996)で登場した鶏の衣装


最新作『蟲』について


最新作『蟲』については、制作費をクラウドファウンディングで募集しているため、既にさまざまな作品の情報が公開されている。まず、カレル・チャペックと兄のヨゼフ・チャペックによる戯曲『虫の生活』、およびフランツ・カフカの『変身』をモチーフにしたものであるという。クラウドファウンディングのページから引用すると、ストーリーラインは以下のとおりだ。

「小さな町の地元のパブ。その日は月曜日で、バーは閉まっており、椅子はテーブルに上げられている。そのパブには、隅に座っている6人のアマチュア役者を除いては誰もいない。彼らはチャペック兄弟の『虫の生活』の舞台リハーサルの為に集まっていた。部屋の向こうの壇上に、舞台の2幕のセットが見える。リハーサルが進むにつれて、舞台のキャラクターは生まれ、また消えていく。役者たちはゆっくりとその役と一体化し、そしてそのうちの何人かは恐ろしい変身を体験する。」

原作の『虫の生活』の第2幕は、フンコロガシの夫婦、コオロギの夫婦、スズメバチの親子と寄生虫が、それぞれの大事なものを奪い合う物語。このフィルムは、そのストーリーを追うのではなく、その戯曲を演じる劇団員たちが虫に変身してしまう物語のようだ。彼は、エディプス・コンプレックスを基に作られたアマチュア俳優の物語であると付け加えた。カフカ、チャペック兄弟、フロイトなど多くの文脈の上で成り立つ難解な作品になるようにも思える。



スタジオのあちこちに転がる大小さまざまなフンコロガシの糞。原作では糞は資本(Capital)と呼ばれている。

シュヴァンクマイエル自身も登場?


さらに彼が詳しい内容を語る。「2人のカメラマンが、映画撮影の様子を撮影して、そのドキュメンテーション的フッテージの中から使えそうな部分を選び、本編に入れている。これは、フィルムに関するフィルムである。自分がどのように自分の作品を監督するのかを撮影し、そうすることで奇妙な映像作品に仕上げようとしている。」という。「サヴァイヴィングライフ」(2010)の冒頭でも、彼自身が劇中に登場するが、今作では三人称視点で映し出されるようだ。

さらに続けてこのように語る。「この作品にはいくつかのレイヤーがある。そのレイヤーとは、チャペック兄弟の戯曲の第2幕、その上に舞台作りに関する映画があり、さらにその上に彼が監督している部分を見せるレイヤーがあり、夢についてその中で語られている」このことから、生活空間と舞台空間、サヴァイヴィングライフでテーマにした「夢」の世界、そしてドキュメントのパートが交錯すると思われる。

この複雑な構造から、彼は何を鑑賞者に伝えたいのか聞いてみると、「シュルレアリストとして、最終的な出来上がりよりも創造的なプロセスが重要だと考えているからです。それで、私はできるだけプロットのなかのドラマの本質を損なわないように気をつけながら、見る人を引き込みたいと考えているのです」と答えた。複雑な思想から難解なものを作ろうとしていると前章で思ったのは私の勘違いで、彼はその複雑な思想を取り込んでひとつの作品へと昇華させる道すじこそを見せたいと意図していることがわかった。

カッティング・ペーパー・アニメーションの即興性


今回の作品でも前述の切り絵によるアニメーションが登場するようだ。クラウドファウンディングのサイトにある映像には蟲が変身するカットが出ている。その撮影もこの映像のなかに出てくる撮影台で行なわれているようだ。写真を切ってコラージュする作業では、絵コンテ等の事前の撮影計画を行なうのだろうか? また前述の「手触り」に関わる部分で、即興的な部分もあるのだろうか? 実際にどのように制作しているのか聞いてみた。

「映画の主題にとってアニメーションが必要と信じているので、私の映画にとりいれています。アニメーションは私にとって表現の⼿段です。 アニメーションは徹底的に正確な準備を必要とするように⾒えますが、私はそれよりも自由な即興性を好みます。アニメーターにとっては難しいことですが、主に長編映画の一部としてアニメーションを使用しているため、カッティング・ペーパーで撮影したショットで作業する方が効果的です」

彼は、作品をより良いものにするため、即興性を貪欲に取り⼊れていることがうかがわれる。

この動画の中で、蟲のストーリーについて語るシュヴァンクマイエルと、カッティング・ペーパーのアニメーションの制作風景が映し出されている。



トルンカスタジオでも使われていたという、カメラを下向きに設置してストップモーションを撮影するカメラスタンド。


左:蟲の衣装を着た出演者の写真の頭部のみが素材として切り取られている
右:フィルム缶には、蟲のあらゆるパーツが置いてある

フィルム保管庫


スタジオの一室はフィルムの保管のため使われていた。ひとりの映画監督が生涯をかけて沢山の映画を作り続けていることを目の当たりにし本当に驚いた。私は、フィルムのもつ独特の粒状感にはデジタルにはない描写力があることを信じていて、インスタレーション作品としてフィルムの映写機も自作している。


本作で映像をどのように収録をしているのか聞くと、「今のところ、従来のフィルムを使って映画を制作しています。『蟲』で私たちは初めてデジタルレコーディングを行ないました。ドキュメンタリーの部分だけですが。ライブアクションの部分に関してはこれまで通りネガフィルムで撮影しています。アニメーションのところでは、私たちにしては珍しくスチルカメラを使っています。しかも初めてコンピュータ上で編集もしています。でも、そうすると、私たちは撮影した素材をひとつのメディアに変換しなければならなくなるんです。これから再びネガフィルムにすべてを移し、デジタルとフィルムの両方でコピーを持つことになります」

アナログフィルムでの収録に留まらず、あらゆる収録媒体を取り入れていることに驚いた。手触り感を出すためであれば、技法は問わないという現れのようにも感じる。



棚にぎっしりと並ぶフィルム缶。ひとつのフィルムリールには10〜15分のフィルムが収録されている。

霊的オブジェの膨大なコレクション


スタジオにはさらに地下室や屋根裏、そして彼が平日の寝泊まりする寝室がある。過去の作品や無数の美術品や工芸品のコレクションに圧倒された。彼はクラウドファウンディングのためのインタビューのなかでも「アニメーターは物体に生命を吹き込むシャーマンである」と語っているように、映像技法の分析だけでは説明がつかない魔術的な要素が最大の魅力であったことを思い出した。いくら私が表面的な技法を模倣しようとも、この世界観を表現できなかったのは、悪魔や精霊といった霊的存在を映像の中で具現化できていなかったからであると、この時初めて気づいたのである。彼は仮面や人形などのスピリチュアルな道具を世界中から集め、研究するという、たゆまぬ努力と探求の果てに、自身の映画の中に魂を宿らせることに成功したのだと、私は悟った。



外光が入らない地下の撮影スタジオ。前述の『ファウスト』ほか、『オテサーネク 妄想の子供』(2000)、『ルナシー』(2005)など過去の多くの作品がこの場所で撮られたという。なにか寒気を感じた。


アフリカなど世界各国から収集した美術工芸品のコレクションに囲まれる寝室。写真が多く、この記事に収めきれないのが残念だ。この写真の何倍ものオブジェに囲まれて生活している。


陽の光が入るアトリエスペースには、シュヴァンクマイエルが制作したオブジェが並んでいた。


アトリエには、前述のファウストやオテサーネクなどに登場した多くの登場人物が保管されていた。こうして写真を見るとモノであるが、映画の中では悪魔や精霊といった霊的存在がこれらのオブジェを通じて具現化する。

長年かけて制作している長編作品の佳境の現場にお邪魔させていただき、貴重な経験をさせていただいた、シュヴァンクマイエルと長年のパートナーであるプロデューサーのヤロミール・カリスタに心から感謝の気持ちを伝えたい。今後の公開予定について尋ねると、制作過程をドキュメントした本をチェコ語と英語で準備しているそうだ。そこには、ストーリー、制作⽇誌、ネタばらし、予算表、キャラクタースケッチなどが収録され、役者たちの紹介や撮影現場や映画本編からの写真も収録されるようだ。期待が⾼まるばかりだ。


引き続きクラウドファウンディングは受け付けているので、興味を持ったファンの方は是非支援して頂ければと思う。また、これからアニメーション作家を目指す方々には、彼の制作への姿勢が参考になればと思う。



左からヤロミール・カリスタ、ヤン・シュヴァンクマイエル、虫になったモンノカヅエ