フォーカス
世界変革のとき──キュレーションについて
長谷川新(インディペンデントキュレーター)
2019年03月15日号
キュレーターとはなにか、という一種の「職能論」について書いてほしいという依頼を受けた。筆者はインディペンデントキュレーターとして仕事を始めて今年で7年目であり、まだまだ学んでいかねばならないことばかりであるが、現時点での、自分が仕事を行なうときの土台のようなものを執筆した。テクニカルなものではなく、理念的な部分を重視したつもりである。なお、タイトルはゲーム『クロノ・トリガー』(1995年3月11日発売)の作中BGMのひとつである。
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「なぜ新しいタイプの革命が可能になりつつあることを思考しようとしないのか」
「ピンクの塩」が流行している
。いわゆるヒマラヤ岩塩である。家庭料理において美的な心地よさをもたらしてくれるそのピンクは、インスタグラム時代において重要なイコンとなっている。この岩塩は、料理だけにとどまらず、バススクラブや岩塩ランプといった美容製品、インテリアとしても活躍している。私たちはパキスタンのパンジャブ州にある岩塩鉱山から切り出された岩塩を、その有用性を確保したまま、インスタグラム越しに「展示」してみせる。鑑賞者はその艶やかに加工されたピンク色越しにつながっている。誰もが消費者であり誰もが生産者である、という平等性が視覚的に実現する。あなたは、私は、たしかに「私たち」としか形容しがたい、時代精神のようなものを知覚する。しかしその「私たち」にパキスタンの鉱山労働者が含まれるのはきわめて稀だ。あるいはこうも言える。インスタグラム越しに映される美しい食事がもたらすのは、「私たちが食べる」という感覚であると同時に、「私は食べられない」である、と。NetflixSense8」の主人公たちは「私たち」という主体への手応え=リアリティを見事に反映している。特殊な能力をもつ8人の主人公たちは精神的・感覚的につながっており空間的に離れていても意思疎通が可能である。かつてドラマや映画で趨勢を見た「多重人格」というモデルから単なる「私たち」へ。彼らはそれぞれの「悩み」を共有し、理解しあい、得意分野と不得意分野を補い合うことで困難に立ち向かっていく(そこではナイロビのバス運転手カフィアスと、ムンバイの富裕層薬剤師カーラの経済的格差は問われない)。
の人気ドラマ「私(I)の身体ではなく私たち(We)の身体があるのだというジュディス・バトラーの態度を受けて、筆者なりに論を展開したい。人々が実際的に集まること、そして「私たちの諸身体」に革命のポテンシャルがあるという期待に筆者も与するとともに、むしろ「We」とはアートの原理である、とさえ主張しうる。ポピュリズムは民主主義の堕落ではなく、むしろラディカルな民主主義を実現しうる条件であるという議論も、よりいっそうのアクチュアリティを獲得している。しかし見逃してはならないのは、パリの市街地を占拠したデモ隊(黄色いベスト運動)は、その身体の集合(「大衆」という主語)によってマクロン大統領から譲歩を引き出したと同時に、暴力行為が変革を可能にするという可能性も強化しているという点である。あるいはそれはまったく変革などではなく、単にルペン率いる極右政党・国民連合に吸収されるだけかもしれない。SNSで発露している暴力はある一定の仕方で管理可能であるということが露わになっただけかもしれない。アートの主要な賭金は無血革命だ。アートをやるということは、直接的な暴力以外の手段で社会を変えうる瞬間を信じるということだ。
非暴力による革命の成就を信じるという点において、私たちはヨーロッパの歴史を参照しうる 。15世紀以降、ヨーロッパの為政者たちは、あるひとつの「技術」の習得に躍起になっている。それはコストを最小限に抑えつつ、できるだけ多くの人々を管理するという技術である。ミシェル・フーコーはこれを「統治の技術」と呼んでいる 。こうした「統治の技術」に対しては抵抗が、つまり「統治されないための技術」が並走する(権力あるところに抵抗がある、というのがフーコーの思考のひとつの原理である)。宗教改革、科学実証主義、自然法の発見はキリスト教会や絶対王政といった統治の権力に対して、お前たちの言いなりにはならないというひとつの態度であり、意志決定である。フーコーはそうした「統治されないための技術」を端的に「批判」と命名する。
ここで注意しなければならないのは、批判とは「まったく統治されない」状況を目指すものではないという点である。宗教改革を例に挙げれば、教会が発行していた「免罪符=贖宥状」を否定するために、ある種の「聖書主義」、聖書への回帰が導入されている。教会の統治技術を批判するために、あえて聖書に立ち戻るわけである。聖書を精読したうえで、聖書のどこにも免罪符を肯定する記述がないと主張する。批判が目指すのは、暴力革命でもなければ、統治なき世界でもない。「どうすれば現在のような仕方で統治されないか」と問い続ける姿勢である。無血革命はそこからしか成就しえない。
こうした批判の技術は、現在世界を覆っているグローバリゼーションと資本主義の体制のもとでも機能しているし、それこそがアートの公共的性質のひとつとなっている。ある種のアートは表現論と制度論を同時に行なうという、とても欲張りな方法論である(どちらかではなくどっちも、同時に、やる)。誰もが全力で生きているという事実や、おおらかなる知性への信頼。ある物質を使い切る=探査し尽くすことで出会う限界=境界点(リミット)の肯定。ルールの修正可能性の提示。これらはモダニズムの倫理としても存在しえたし、現在も大切な倫理であることに疑いはない(このグロテスクな世界はそこに到達しないあらゆる「中途半端さ」を原動力にしようとしているから)。
しかし、アートが批判の技術であり、かつ、「We」を構成する態度であるという組み合わせは、次のような含意を必然的に伴う。すなわち、アートをやるということは、自分たちがマジョリティの側に、生きている者たちの側に、人間の側に、民主主義の内部にいるということであり、にもかかわらず、「私たち」の身体を編成し、これを維持しようということだ。社会の変革を真に希求するものはマイノリティの側に、死者の側に、動物の側に、民主主義の外部にいるにもかかわらず、である。「私たちの身体」とは、つまりマジョリティとマイノリティが、生者と死者が、人間と動物が、民主主義を享受する側と民主主義の生贄として排除されている側を、その差異を踏み越えて「We」と名指してしまうということである。その状況は考えるまでもなく熾烈である。つまるところ、アートをやるということは、それ自体がラディカルにひとつの暴力なのである
(だからこそ、アートは誰かを傷つけることを全力で回避しなければならない)。アートにおいて求められているのは「解放」ではない。再びフーコーを召喚すれば、鍵となるのは「反省」である。「解放」するということは、出力の不確定性、世界の偶然性(がゆえに居直られる恣意性=なんでもあり)に身を委ねるということである
。反省とは単に慎み深く生きるといった水準の動詞ではなく、真の自由のための条件にほかならない 。
先ほどフーコーの思考の原理として、権力あるところに抵抗あり、と書いた。これは言い換えれば、抵抗は権力につねに先回りされているということでもある。したがって抵抗の拠点は権力の間隙には見出しえない(権力のない地点には抵抗もないのだから)。それゆえ抵抗は相手のミスに、エラーに、偶然性に依拠するほかなくなる。ここで偶然性にすべてを賭けるということがきわめて危険であることは論を俟たない。ラッキーパンチは何度も当たらない。何より権力が完全に行使された場合、抵抗は打つ手がないことになる。
フーコーは発想を転換する。権力は不可避である。それゆえ、戦いの拠点は身体の外部(権力を回避すること)ではなく、内部(権力の作用後)にある。権力とは突きつめれば「行為させること」である。であれば、権力を行使されたうえで、なおも、その権力に抵抗することが可能である。「ノー」と言うこと。「嫌だ」と言うこと。フーコーはこれを「反省」と呼び、「真理への勇気」と呼ぶ(その代償として死んでしまうかもしれなくても、嫌だと言うこと)。「反省」はその響きからは逆説的に聞こえるかもしれないが、むしろ「出力最大化」が可能なように権力を制御するということである 。
アートは無血革命を目指し、恥ずかしさに耐えながら「私たち」と名指す批判的行為である、と仮定する。ここでようやくキュレーターが出現する。近代以降出現した「アーティスト」を自称する人々は、自分の個別の身体から生み出された仕事の特殊性を強調しながら(「これは自分にしかできない」)、にもかかわらず普遍的な価値を有していると主張する(「これは社会全体、人類全体にとって意味があるのだ」)。このにわかには承服しがたい理屈に基づくことで、アートには公的資金(税金)が投入され、購入、保護、研究がなされている
。ひとつのアートが世界を変えうる。無血革命を起こしうる。普遍的でありうる。社会性を備え、一般性を獲得しうる。つまり、あなたに関係している。未来につながっている。それを信じたい気持ちはやまやまだが、しかしそれは突きつめていくととても根拠薄弱に思えるし、アートをやる余裕のある人間が「We」だということは不遜で傲慢で恥ずかしい。キュレーターはこの当面の「うまくいってなさ」を調整する技術として出現している 。キュレーターとはアートを「反省」する制度である。アートを「解放」させない装置である。それゆえキュレーションとはひとまず諸技術の編成体であると言いうる。それが単なる技術である限り、それは分析(隠蔽)が可能であり、共有(独占)が可能であり、改良(改悪)が可能である。「私」の表現が、「私」の表現であり続けられたためしなどなく、等価交換が成功したことなど一度もない。私はつねに私を踏み越えてしまうものであり、等価交換はつねに多くを渡しすぎるかもしくはまったく足りていない。技術はつねに改良・改悪され続け、本来の場と異なる場へと拉致されうる。よかれと思って行なったことが致命的な悲劇を生んでしまう。これらはあくまでデフォルトであり、正真正銘の現実である。これが、現実である。
だからこそ、私たちは免疫機構を自らのうちに備え、それゆえに、免疫反応に苛まれ続ける。「私たち」の身体は、つねに免疫の過剰反応で発熱しており、ただれた皮膚には漿液がにじみ、かゆみと痛みの区別もつかなくなっている。改めて強調するが、諸身体は合意しあっているわけでも理解しあっているわけでもない。互いに平行線をたどりながら、同時代であろうとしているのみだ。そのなけなしの、かろうじて共存できかけている諸身体を、恥辱とともに、未来へと送り出す試み。「コンテンポラリー(同時代であること)」は「私たち」の身体が構成される時間の持続にのみ必要とされる。むしろそのときだけがコンテンポラリーである、と言い換えてもよい。展覧会は、あなたを、コンテンポラリーな「私たち」の諸身体を通して、過去と未来の衝突の瞬間へと引きずりこむ重力場である。展覧会とは一種の時間圧縮装置である。あなたは世界変革のときへと差し向けられている。