2019年12月01日号
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フォーカス

『羅生門』から『赤毛のアン』へ──高畑勲の演出が音楽にもたらすもの

細馬宏通(人間行動学、早稲田大学文学学術院)

2019年08月01日号

2018年に逝去したアニメーション映画監督・高畑勲の演出に焦点をあてた回顧展が、現在、東京国立近代美術館で開催されている。ジェスチャー、アニメーションの研究者であり、『今日の「あまちゃん」から』(河出書房新社、2013)、『二つの「この世界の片隅に」─マンガ、アニメーションの声と動作』(青土社、2017)など、テレビドラマや映画の映像・音楽・演出の緻密な解読で知られる細馬宏通氏に、この展覧会を構成する作品のひとつ『赤毛のアン』について寄稿していただいた。(artscape編集部)


「高畑勲展──日本のアニメーションに遺したもの」展ちらし

高畑勲 音楽演出の秘密


映画音楽に対して、高畑勲は早い関心を示している。たとえば「映画音楽と早坂文雄の死」(「影絵」東京大学映画研究会、1955/『映画を作りながら考えたこと』[徳間書店、1991]に再録)で、高畑勲は、早坂作品だけでなく映画音楽全般について論じており、映画音楽を、音楽そのものが魅力を持っている場合と、映像となんらかの「コントラスト」を持つ場合とに二分している。後者の場合に好感を持つ高畑はこれを「対位法的手法」と呼んでいるが、これは音楽用語の「対位法」の意味ではなく、映像で起こっている現象に対して対比的な調子を持つ音楽、ないしは異化効果をもつ音楽を指している。

その好例として高畑が取り上げているのが、黒澤明の『羅生門』(1950)の前半部分、杣売そまうりが森を分け入っていくときに奏でられる「ボレロ」調の音楽である。「杣売がどんどん森の中を進んでゆく。笹ががさがさ鳴って目まぐるしく後ろへとぶ。逆光をあびた真黒の葉や梢の網目模様。日は梢に砕け散り、あやしい光の微塵を放射する。杣売が進む。葉端がひかる。真黒い「影」とギラギラした「光」の鋭く細い交錯が目まぐるしく変化し眼を射る。この上にボレロがかぶさる。不安なリズム。その効果は絶大である」(『映画を作りながら考えたこと』18頁)。実は、この場面の音楽は、杣売が道の途中で市女笠を見つけ、踏みにじられた侍烏帽子を見つけるたびに、調子を変えて立ち止まるのだが、興味深いことに、高畑はその工夫については全く述べていない。むしろ、ラヴェルの「ボレロ」を思わせるリズムの繰り返しと、志村喬演じる男の足取りとがもたらす異化効果の方に注目しているのである。

音楽構造の具体的な細部は分析されていないものの、高畑勲がまだ演出家となる前から、音楽を単に感情を高める道具としてではなく、映像と有機的な関係をとり、ときには異化をもたらす表現として捉えていた点は、注目すべきだろう。



高畑勲


『赤毛のアン』オープニング・テーマにおける発見

「高畑勲展─日本のアニメーションに遺したもの」では、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968)、『セロ弾きのゴーシュ』(1982)などの劇中曲の演出を記したチャートが展示されており、彼がいかに歌詞の内容だけでなく、日本語の音韻の一つひとつ、メロディの起伏の一つひとつに分け入ってショットを割り、演出を行なっていたかをうかがうことができる。なかでも、わたしがはっとしたのは、会場で大写しになっていた『赤毛のアン』(1979)のオープニング・テーマだった。その映像を久しぶりに見て、これは高畑が若き日に惹かれた『羅生門』そっくりではないか、と気付いたのである。

何を馬鹿な、早坂文雄の書く土俗的なメロディの繰り返しと三善晃による絢爛たるオーケストレーションはまったく別物ではないか、と思われるかもしれない。確かに曲の内容はまるで違っている。「きこえるかしら」(作詞/岸田衿子、作曲・編曲/三善晃、歌/大和田りつこ)で、三善晃は、岸田衿子の歌詞の一節一節に対して、シンフォニックなイントロ、金管とサックスを中心とした伴奏、一転して弦のピチカートとピアノによる可憐な響きから弦楽合奏へとめくるめくアレンジをほどこしており、一聴すると「繰り返し」とはほど遠く感じられる。しかし、よくきくとその底流には、馬のひづめを模すかのように、ボンゴやコンガによる「ボレロ」調のリズムが繰り返し流れ続けている。

そして映像には、他のアニメ作品にはない、大胆な演出がほどこされている。それは、最初から最後まで一貫して、馬車を駆るアンの姿を描いていることである。高畑による演出は、『羅生門」で杣売の足取りを追うカメラの如く、パンや移動を駆使してアンと馬車の姿を追う。その道中でアンと馬車は「逆光を浴びた真黒の」森を抜け、彼女に降りかかる桜吹雪によって「光の鋭く細い交錯が目まぐるしく変化し目を射る」。何より、通常のアニメ作品が物語の内容をオムニバスで編集する場合が多いのに対し、アンと馬車の前進力と音楽のもたらす高揚を演出している点で、『赤毛のアン』は『羅生門』の杣売場面の影響下にあるといってよいのではないだろうか。

もちろん、『赤毛のアン』は『羅生門』の単なる引き写しではない。そこには、高畑勲の、そしてレイアウトと作画を行なった宮崎駿をはじめとするスタッフたちのアイディアが創発している。それはどのようなものか。ここからは、ただアンが馬車を駆るという八十秒足らずの映像を、彼らがどのように音楽や歌詞と巧みに組み合わせているかを追っていこう。


まず驚かされるのは、このオープニングが20数秒にわたって、主人公であるアンの顔を捉えていないことである。

音楽のイントロでは、三つ編みの少女と彼女の駆る馬車の影だけが緑の草原に落ちており、見る者に謎をかける。この影は何者なのか。「ゆるやかな丘をぬってかけてくる馬車」というところで、ようやく馬車をフォローしていたカメラが速度を落として離れ、少女の後ろ姿が捉えられる。「馬車」「しゃ」のところで馬車は明るい道から暗い森へと入るのだが、このタイミングは絵コンテのなかではっきりと示されている。この演出によって「馬車」という歌詞が光と影の分節点になるように時間設計され、映像の主題である馬車と音楽とは強く結びつく。

一方で、音楽と歌詞の間にはちょっとした異化効果も演出されている。歌詞の上では「かけてくる・・馬車」となっているのだが、じつは馬車をフォローしていたカメラが速度を落として離れるのは、まさにこの「かけてくる・・ということばのタイミングなのだ。つまり、カメラの動きによって馬車は遠ざかり「かけていく・・馬車となっているのである。

映像と音楽のタイミングを合わせる一方で、歌詞の内容と映像の内容との間に異化効果を設ける。これが高畑勲の演出の狙いであることは、そのあとの展開からもわかる。

メロディの切れ目で、それまで金管とサックス主体であった伴奏に、弦楽合奏が加わりシンバルのロールが高まると、少女と馬車は森をぬけ、逆光の明るみに出る。そして「むかえにくるの むかえにくるのね」と歌は続き、馬車は地上ではなく町の上空を夢のように駆けてくる。ここでようやく、見る者は少女アンの顔を目撃するが、まだ間近ではない。歌詞をアンの一人称的視点と捉えると、「むかえにくる」という歌詞とともに現れるべきは馬車を待つアンと、アンのいない馬車のはずなのだが、アンはすでに馬車を駆っており、ここでもまた異化が感じられる。

そしていよいよ「誰かがわたしをつれてゆくのね」だ。この歌で「つれてゆくのね」は三度にわたって繰り返されるのだが、このことばにほどこされた演出と作画はいずれもすばらしいものだ。

まず第一の「つれてゆくのね」で、絵コンテには高畑勲の字でシンプルに「アンのfollow」と書かれており、アンの側面をカメラで捉えることを指示している。しかし、ここでレイアウトと作画によって絵コンテにない独自の工夫が加わっている。「つれてゆくのね」ということばが終わりきらないうちに、アンの体は、まるで飛行機が操縦桿を右に回すように傾き、視聴者から少しく遠ざかるのである。この、地上ではけしてありえない、空中でのみ起こりうるアンの移動によって、見る者は思いがけない浮遊感を感じるとともに、まさにアンが画面のこちらから向こうに「つれてゆかれる」のを感じる。これはおそらく、空中移動表現を得意とする宮崎駿の仕事であろう。

第二の「つれてゆくのね」は、アンが桜吹雪を抜け、枯れ葉の舞い散る中を過ぎたあとのショットである。絵コンテには、アンの顔を斜め前から捉えた図が描かれており、指定には「ミトンはめて、頭巾姿のアンに雪が散りかかり、サラサラした白樺林(落ち葉)の梢が流れる」とある。桜吹雪の春、落ち葉の秋のあとの冬の情景を描くべく、高畑勲は「頭巾姿」と「ミトン」を指定したのだろう。しかし最終的に描かれているのは少し異なるアンの姿である。アンはコートとミトンを纏っているものの、あえて頭巾はつけずに、それまでと同じ、底が浅くつばの小さな帽子をかぶっている。そのおかげで、アンの姿に一貫性が感じられるだけでなく、彼女の表情がよくわかる。そして、宮崎駿はラフ原画で、「つれてゆくのね」ということばに合わせてゆっくりと後方を振り向くアンの動きを付け加えているのである。この動きのおかげでほんの一瞬だが、見る者は初めて、アンの顔を正面から見ることになる。その表情はこちらをはっとさせる。「つれてゆくのね」ということばでつい連想してしまいそうな、うっとりと耽溺する表情ではない。微笑みとともに描かれる瞳は、この冬景色をすみずみまで見渡すかのように見開かれており、眉もまなじりも下がることはない。

「つれてゆくのね」という歌声に応えるように、それまでめくるめく駆けてきたピアノが弦とともに夢見るようにユニゾンのメロディを奏でると、今度はアンは微かな笑みを浮かべたまま前に向き直る。音楽の甘やかな響きを、まるで通り過ぎる風景のように見渡すアンの表情には、過ぎてゆく季節に対する惜別の憂いさえ感じられる。この、7秒に満たない振り向きと向き直りに、この物語でアンが体験するであろう出会いと別れの感情が凝縮されているかのようだ(このすばらしい表情の変化を描いた原画も展覧会では展示されている)。

そして第三の「つれてゆくのね」では再び、緑の草原に落ちるアンと馬車の影が、種明かしのように描かれる。冒頭に描かれた謎めいたショット、少女の駆る馬車の影は、「つれてゆく」ことだったのだ。わたしはこのオープニングを繰り返し見るうちに、音楽のイントロとともに流れるこの緑の影を、「つれてゆく」ということばとともに思い出すことになる。映像とともに歌をきくとき、繰り返される「つれてゆく」は、もはや単に誰かがここからどこかへわたしを連れ去ることではない。それは過ぎ去る季節をいま、かけてゆきながら見届ける時間となる。そして、見届けつつあるアンと馬車が草原に落とす影を、いま、わたしは目撃している。

かくして、わずか80秒足らずのアニメーションで、音楽に寄り添うように割られたショットのタイミングと、音楽の情緒を異化するように進む映像の内容とをともに感じながら、わたしたちはひたすら季節を駆るアンの時間を体験するのである。



『高畑勲展─日本のアニメーションに遺したもの』会場風景
[赤毛のアン©NIPPON ANIMATION CO., LTD. "Anne of Green Gables"™ AGGLA]


高畑勲展─日本のアニメーションに遺したもの

会期:2019年7月2日(火)〜10月6日(日)
会場:東京国立近代美術館
東京都千代田区北の丸公園3-1

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