フォーカス

【イルクーツク】共鳴しあう都市と絵画と音楽

多田麻美(アートライター)

2019年08月01日号

欧米はもちろん、首都モスクワからも遠く離れた場所にある内陸都市、イルクーツクの作家たちの強みは、表現者に必要な環境や刺激をしっかりと得られると同時に、流行りの概念や手法に影響され過ぎずにも済むということだろう。そんな豊かで自由な創作環境のなかで、作家たちはときに外来のロックやクラシック音楽、ときに土着的な要素や時代背景などに影響されつつ、自分なりの表現の境地を切り開いている。


イルクーツク最古の歴史を誇るスパスカヤ教会


受け継がれた壁画の伝統


東シベリアの中心都市、イルクーツクは、ロシア屈指の文化的都市だと言って過言ではない。街並みの美しさやその文化的雰囲気から、「シベリアのパリ」と呼ばれることもあるほどだ。劇場の数は大型のものだけで4つ、その市立美術館も、ウラル山脈以東のロシアの都市のなかでは最大規模のコレクションを誇っている。

早くはデカブリストの乱が1826年に鎮圧された後、当時の首都だったペテルブルグを追放された貴族らによって、この地にさまざまな文化がもちこまれた。また革命や大戦の時代には、さまざまな文化的背景をもつ無数の文化人たちが、戦火を逃れるべく、西方からこの地に移り住んできた。

そういった歴史的背景をもつイルクーツクは、現在に至るまで文化芸術を重んずる気風を保ち続け、映画監督のソクーロフや、ガイダイ、そしてミハイル・ロンム、脚本家のヴァンピーロフやピアニストのデニス・マツーエフ、さらには小説家のラスプーチンや詩人のエフトゥシェンコなどに代表される、世界的に有名な文化人を多数生み出してきた。芸術関係の学校も多く、その教育レベルも高いため、イルクーツク州だけでなく近隣の州や地方からも多くの学生を集めている。それは、長年の不況によって、芸術学校の卒業生の数が、彼らが得られる仕事の機会とみあわなくなっているという弊害をもたらしつつも、この街につねに若々しい活気をもたらしている。


イルクーツク美術館 V.P.スカチュバ


街を彩るグラフィティたち

最近、モスクワ郊外の6棟のマンションに総面積6万平方メートルの葛飾北斎の浮世絵、「神奈川沖浪裏」が現れて、話題になった。さすがにそこまで巨大ではなく、また以前ほどの盛り上りはないと言われているものの、イルクーツクの街を歩いていると、あちこちで壁画やグラフィティに出会い、この街のクリエイティブな活力を感じる。大小さまざまの壁画やグラフィティは、目立つ場所にあることが多いが、目立たない場所にもあり、木陰などの暗さに目が慣れたとたんに浮かび上がって、ハッとさせられたりする。商業的なもの、公益的なもの、落書きなど、性質はさまざまだが、なかには、そういったジャンル分けが無意味に思えてくるほど、独自の存在感を獲得しながら、街と溶け合っているものもある。



アンガラ川の川岸の空き地の壁に潜んでいた壁画


そもそも、建物や塀などの壁を図案や絵画で埋める伝統は、教会内外の壁を彩った宗教画を別とすれば、プロパガンダ壁画が盛んに描かれた旧ソ連の時代に遡る。



旧ソ連時代の図案の痕跡を残した壁


ソ連時代は、映画や店の商品を宣伝する看板なども、手書きで描かれることが多く、そういった絵を手掛ける画家は、「オフォルミーテリ」という正式な職業に就いている芸術家として、毎月給料を受け取っていた。



コカ・コーラの手描きの広告。ペレストロイカ時代から残る数少ない例


風化や意外な出会いがもたらす効果

だがソ連解体後、街や社会と絵画の関係は大きな転機を迎える。ソ連以来の「オフォルミーテリ」は転職を迫られ、壁の絵画は落書き的グラフィティ、許容度の高い壁に自由に描くリーガル・グラフィティ、そして広告や装飾のため、公私の依頼者が画家に依頼して描かれるものが中心となる。



広告を兼ねて描かれた壁画。作家の遺作になったと言われている


公益的な目的のため、政府の委託によって描かれる壁画も、戦勝記念日などは重視されるものの、全般的に政治色は弱いものとなり、日本でも見られるような、街のイメージアップや地域の文化の紹介を意図したもの、環境保護を訴えるものなどが中心となる。



戦勝記念日をテーマに、美術学校の学生たちが描いた壁画




街の美化のために描かれた壁画


言うまでもなく、壁画やグラフィティはアノニムで通常はタイトルも付されていないということが、観客と作品との出会いを、より自由で拘束の少ないものする。さらには、描かれる場所と内容の組み合わせや、作品と出会った時の環境的条件、作品が風雨などに晒されて変容することによって生まれる効果なども作品の質や鑑賞に影響する。日常生活のなかで、「まったく期待していなかった場所とタイミングで現れる」という、ゲリラ的と言えるほど完全な意外性も、壁画の特記すべき性質だ。

そもそも、グラフィティはどこまで許容され得るのか、という問いは、美学や法学などの領域に関わる、複雑で正答のない問題だろう。許可なく描かれた落書きがプラスの効果を生んでいることは多々あるし、公共の空間に公的な目的で描かれた壁画でも、多くの人に不快感をもたらすことはあり得る。本気で論じるのであれば、何をどこにどのように、なぜ描いたのか、という問いと、徹底的に向き合う必要があるだろう。また、激動の時代を経ているロシアでは、作品がいつ描かれたかも、作品の運命を左右する。


スラバ・カロッテ(当時の画号はポール・デカロッテ)がイルクーツクで最初のグラフィティとして、ビリー・ジョエルの肖像画を手がけたのは、ソ連解体前の1990年だった。それまで彼は社会的にはまだ無名だったが、当時はペレストロイカが社会に混乱をもたらしていた時期で、街の秩序が失われていた。そのため、その後に彼が有名になってから同種の肖像画を描いた時と比べ、作品は長く壁に残ったという。つまり、ソ連解体前にリスクを冒しつつ彼が描いたビリー・ジョエルのイメージは、ペレストロイカ前はその大半がタブーとされた西側のロック音楽の急激な受容と崇拝という意味合いだけでなく、法的秩序が失われた時代の社会混乱の度合いも象徴しつつ、約5年にわたって橋を通る多くの人の目に留まり、街とグラフィティの関係に作用を及ぼし続けた。

もちろん、現在のイルクーツクで出会う、恣意的に描かれたらしきグラフィティのなかにも、一見、荒唐無稽に見えつつ、独特の世界観、美学を宿らせているものがある。



ごみ溜めの脇の小型倉庫に描かれたもの


正直なところ、壁画やグラフィティのなかには、時間とともに色あせていく上、もともと鬱屈した何かを解き放つかのような絵柄も多いため、夜道でいきなり出会った場合、かなり驚いてしまいそうなものさえある。それらは、しばしば街や住人たちが抱えている闇の部分のようなものを滲み出させながら、いつ消されるともしれぬ、はかない運命に甘んじている。

採算度外視の面白さ

もちろん、商業的な目的で、有償で描かれた壁画のなかにも、作家の個性が生かされているものは少なくない。その多くのケースでは、描き手が作品の規模やレベルに見合う報酬を得ているとはいえない。だがそもそも、多数の作家を擁するイルクーツクで、作品制作の注文を受け、食べていける若いアーティストは、かなり幸運な部類に入る。金融危機や経済制裁以来の長年の不況で経済が疲弊し、富裕層が減少している現在のイルクーツクでは、無名の作家が画家として食べていくのは、とても難しくなっているからだ。



地元の画家のボリス・カルタショフが画廊の依頼を受けて描いた壁画



だが、そんな苦境にありながらも、採算はむりに取ろうとせず、自分なりの形で社会と関わり合いながら、自己表現をつづけていく作家たちの姿には、バブルやグローバリズムなどとは無縁で、そもそも市場経済のシステムにもあまり縛られていないがゆえの、すがすがしさがある。彼らにとっては、グラフィティも壁画も、ただ好きだから、描いている。それだけなのだ。

とくにミュージシャンや楽曲へのリスペクトを表したものなどは、一種のファンアートなので、そのテーマで描くこと自体が、自らの趣味やポリシーの主張となる。



ボリス・カルタショフが好きな音楽をテーマにして描いた作品



肖像画と花束でゲリラ的にリスペクト

そもそも、先述のスラバ・カロッテの壁画も、ファンアートの一種であり、自らの人生を彩り、創作にもさまざまなインスピレーションを与えてくれる「自由」の象徴、ビリー・ジョエルの音楽に対する敬意と愛情を、街の一角で象徴的に表現しているに過ぎない。

最初のグラフィティにおいて、彼は敬愛するビリー・ジョエルの誕生日に、彼の肖像画を、スターリン時代に建てられた橋に描いた。警察も駆けつけたが、知人のつてを使って何とかかわし、結果的には地元の新聞やテレビに取り上げられるほどの話題を呼んだ。彼が掲載紙をビリー・ジョエルのファンクラブに送ると、そのお返しにビリー・ジョエルのカセットが送られてきたという。

スラバ・カロッテはその後も、天才的な業績を残したミュージシャンたちに敬意を示すべく、ビリー・ジョエルをさらに3回、ジョン・レノンを5回、ドアーズのジム・モリソンを2回、フレディ・マーキュリーとエリック・クラプトンを1回ずつ、グラフィティとして街角に描いている。とくにジョン・レノンとビリー・ジョエルの肖像は、街中でもっとも目立つ場所である橋に描かれ、それに気づいたファンのなかには、肖像画の前に花束を捧げる者までいた。



2005年頃に描かれた、ビリー・ジョエルをテーマにしたグラフィティ



結果的にはスラバ・カロッテのグラフィティはすべて違法とされ、消されてしまったが、彼が投げかけた、「このような表現もあり得るのでは?」という問いは、イルクーツクのグラフィティ文化の端緒を開き、多くの追随者を生んだ。


音楽と絵画が響き合う

一方、音楽と絵画の新しい関わり方を追求し、オーケストラの生演奏に合わせてその場で即興で創作をするという試みを実現させたのが、画家のアレクセイ・トレチャコフだ。長年、ドイツのライプツィヒとイルクーツクの間を行き来しながら創作活動を続けてきた彼は、2019年6月14日、イルクーツク・フィルハーモニー管弦楽団が生で演奏する「カルメン組曲(Carmen Suite)」に合わせ、聴衆に見守られつつ、大型の舞台の上で、絵画を完成させた。



「カルメン組曲」の演奏に合わせてアレクセイ・トレチャコフが即興で絵画を制作



さまざまな楽器が豊かな音を奏でるなか、絵筆がカンバス上にさまざまな色や形象を紡ぎ出す。すると曲の響きそのものも視覚的な色彩をまとっているかのような錯覚が生まれる。同時に、オーケストラの壮大で波打つような音も、動き続ける絵筆に舞踏を思わせる躍動感を添える。描きあげられたカルメン像は、まさに音楽そのものから生まれたかのように、音のうねりを身にまとっていた。

絵画と音楽が共鳴しあうなか、鑑賞者はそれぞれが作品として完結していく過程を、一度限りのライブ体験として、視覚と聴覚を同時に駆使しつつ、追ったのだ。

グラフィティや壁画がもたらすライブ感は、作品と観賞者をめぐる長期的で意外性に富んだつながりを生むが、この作品がもつライブ感は、会場でひとたび終結する。だが、ジャンルの垣根をインタラクティブに超えており、多層的だ。

イルクーツクのグラフィティや壁画のあり方が示す、公共空間と芸術と鑑賞者の柔軟な関係は、新たな試みを受け入れるたびにバージョンアップしつつ、トレチャコフのような、ジャンルの垣根を超えた試験的ライブを受け入れる土壌となったのだろう。

ときにユーモアやチャレンジ精神、そしてウィットを伴いつつ、この地で増殖、または変化発展していくライブ感の行方を、これからも見守っていきたい。