フォーカス

「日本」という想像上の化け物を越えて──流動性を増すアジアの舞台芸術

藤原ちから(アーティスト、批評家、キュレーター、ドラマトゥルク)

2019年09月15日号

近年、アジア間の国境を跨ぐかたちでの共同制作やアーティスト・イン・レジデンスなどが盛んに行なわれ、トランスナショナル化が進むパフォーミングアーツの現場。そういった状況に、日本に拠点をもつアーティストや観客たちはどう向き合っている(いく)のだろうか。国内外の各地を移動しながら、批評家・アーティストとして活動する藤原ちから氏にご寄稿いただいた。(編集部)

アジアで舞台芸術に関わるということ


金門島にやってきた。中国大陸に隣接しているが、台湾が「実効支配」しているとされる島だ。厦門(中国福建省)からフェリーに乗ってわずか30分。国境を越えたが、それは目には見えない。窓からじっと海を眺めていたが、ただ水面が波打つばかりだった。

それでも「出国」「入国」のスタンプが押されて、ああ、どうやら国境を跨いだらしい、とわかる。実はこの島に来たのはこのスタンプが欲しかったからでもある。上海の美術館でパフォーマンスをするために中国に長期滞在しているのだが、ビザの問題でいったん外に出る必要があり、それなら金門島に行けば「出国」扱いになるはず、と思いついた抜け道だった。こうした工夫は、アジアを拠点にするアーティストたちにはお馴染みのものだろう。

華僑たちの故郷である福建省や、かつて激しい戦闘に晒された金門島を、この目で見たいという誘惑もあった。昨年、台北芸術祭2018で『IsLand Bar』というパフォーマンスを上演したとき、台北の観客に「あなたのおばあちゃんはどこで生まれましたか?」と尋ね、家族の来歴を訊いたところ、国共内戦後に台湾に逃げた人たちの子孫もたくさんいた。祖父が金門島で兵士をしていました、とか。あるいは、祖母がギャンブルに狂って失踪し、数十年後に故郷に突然帰ってきてその翌年に亡くなった、という猛者もいた。アジアは物語の宝庫だと思う。わたしは彼らに、金門島の名産である高粱酒(アルコール度数58°)を振る舞った。だが、そのときはまだ金門島に足を踏み入れたことはなく、想像上の島でしかなかった。

いざ、金門島に来てみると、厦門からのあまりの近さに、いまひとつ実感が湧かない。それでも確かにここは台湾ではある。通貨は台湾ドルだし、町にはセブンイレブンもたくさんあり、ゴミ収集車の流す音楽も台湾風だ。それになにより、中国本土にある検閲システム、グレートファイヤーウォールが存在しない。Googleの各種サービスやFacebookやTwitterに簡単にアクセスできることに、新鮮さを覚えている。中国大陸を覆う巨大な「見えない壁」を越えたのだと。


実は香港に「出国」する手も考えていた。今年(2019年)6月にワークショップのために訪れた頃は、デモはすでに始まってはいたものの、いまからすればまだ穏やかなムードだった。その後、落としどころが見えない混迷した状況になり、香港にいる人々は日常的に暴力の危険に晒されている。友人たちに会いに行って無事を確かめたい……そういう気持ちもあった。しかし国境で足止めを食らう危険性もあるいま(実際、空港が封鎖された日もあった)、上海に戻って来られなくなるリスクは避けざるをえなかった。その判断が正しかったかどうかはわからない。

いま、東アジアで舞台芸術に携わるとしたら、こうした緊張関係のなかに身を置くことになる。というかそもそも広くアジア全般の各地においては、ずっと前から、芸術に手を染めることは政治的な緊張感と隣合わせだったはずだ。検閲、不敬罪、戒厳令、汚職、弾圧、粛清、リンチ、誘拐、テロリズム、大虐殺……。アジアに生きるアーティストたちのほとんどは、本人、あるいはその親たちの世代が、そのような何らかの歴史的激動のなかを生きてきた。そのせいなのか、彼らの多くはアジア各地の歴史を基礎的な教養として身につけている。多様な言語・宗教・民族がひしめき合うなかで生き、複雑な血縁的ルーツを持つ彼らにとって、歴史を学ぶことは自分自身の存在理由を探究することでもある。それはアジアに限らず、ヨーロッパやほかの諸地域でもそうであろう。

「日本」とどう距離をとるか

一方、地理的には東アジアの一部であるはずの日本は、特殊な環境下に長らく置かれてきた。「現在」の状況への観察・分析・リアクションや、「未来」への空想・発展には長けてきたが、さまざまな理由により、「過去」を検証し自らの歴史的ルーツへとアクセスする力は培われてこなかったのではないだろうか。また、あまりに長いあいだ政権交代がなく、政治への無関心がデフォルトという状態が続くなかで、芸術もまた一種の芸術至上主義へと閉じこもり、「政治と芸術は別のもの」「政治を扱うのはダサい」という考え方が広く浸透してきたのではないか。つまり日本の芸術は、歴史と政治から距離を取ってきた。舞台芸術(とりわけ現代演劇)にしても、身の回りの些細なできごとを繊細に描き出すことで、日本社会にべっとりと蔓延してきた「空気」と闘うほかなかったように思える。

2011年の東日本大震災以降、その「空気」は確かに大きく変わった。しかし、あれから8年半、ではこの国が良くなったかというと、そうはならなかった。日本はもはや曖昧な「空気」に覆われているだけではなく、政治家の圧力や忖度、市民からのテロ予告が実在し、言論空間は対話不可能な「炎上」によって埋め尽くされているという、明らかに危険な場所になってしまった。いまやまさか、「へえー中国は検閲があるんだ、大変だねえ」とか「タイは不敬罪があるの? 信じらんない」とか呑気にのたまえる日本人はいないはずだ。わたしの体感では、日本はいま、自由度においてはアジアでもっとも危機的なワースト・ブラック国だと思う。検閲が明瞭にシステム化されている国のほうがまだマシかもしれない。そのシステムをいかに出し抜いて自分たちの表現や言論を行なうか、模索するうえで、闘う相手が明確であるという意味では。

ではこの危機的な状況に対して、どうするか? いま、個人的には、日本との距離感をどう取るかで悩んでいる。日本を変えようと頑張るのか。それとも思い切って日本を捨てるのか。つい、そのような二つの選択肢が頭の中に浮かんでは消えていくのだが、それは「日本」という巨大な想像上の化け物(リヴァイアサンのような)に引きずられているせいかもしれない。そんな化け物はそもそもいないし、現実にあるのは一つひとつの具体的な場所でしかない……そう考えたほうが、精神的にも健やかでいられるし、結果的に日本国内で活動していくためのモチベーションも得られるのかもしれない。

現在、「MOTサテライト2019 ひろがる地図」(東京都現代美術館/10月20日まで)に出品されている筆者の作品『演劇クエスト・メトロポリスの秘宝』。参加者は「冒険の書」の指示を頼りに都市を探索する。

群島(Archipelago)としてのアジアと、「日本語の壁」

2015年のTPAM(舞台芸術ミーティングin横浜)をきっかけにわたしはアジア各地で活動していくことになったのだが、その最初の地であったフィリピンが7000を超える数の島々によって構成される群島(Archipelago)であったことは、わたしのアジア観、ひいては世界観を大きく変えることになった。「島」という概念は、外界から孤立した閉鎖的空間をイメージさせもするが、実は、海の上に浮かぶオアシスであり、人やモノが行き交う港であり、誰かと誰かを結びつける中継地点でもある。そしてアジアは、そのような「島」が集まって構成されている……。そう考えていくと、日本もまたそうしたアジアの群島の一部にすぎないと思うようになった。

もちろん日本には固有の文化がある。その固有さは、しかし、日本列島が誕生したときからあったわけでは当然なく、中国大陸、朝鮮半島、琉球、オホーツク海、そして太平洋を、人やモノが移動していく過程を経て、やがて独自なものへと変貌していくことで生まれたはずだ。日本の歴史をより深く読み解こうとするならば、そのような、国家という単位を超越したモビリティ(移動)の痕跡を無視することはできない。

例えば対馬は、朝鮮半島と日本列島をつなぐ要所であり、13世紀後半の元寇以降、宗氏一族が権力を握り支配してきた。その宗氏は、江戸時代の初期に、徳川幕府と李氏朝鮮の仲をとりなすために国書を偽造する事件(柳川事件)を起こしている。いわゆるダブルスパイと言ってよいだろう。興味深いのは、このとき、果たして国境はどこにあったのかということだ。対馬は江戸幕府だけに従属していたわけではなく、地理的には朝鮮半島との通路として栄えてきた。いまも対馬に行ってみると一目瞭然だが、町の看板の多くはハングル文字で表記されており、ここが国境の町であることを象徴している。わたしが会ったタクシーの運転手は韓国語がペラペラで、むしろ日本人を乗せることは珍しい、と言っていた。

生まれたときから国民国家というものが存在する現代人にとって、国家という単位を越えてものごとを考えるのは容易ではない。特に「ひとつの民族=ひとつの言語=ひとつの国家」という幻想を信じてきた日本ではそれはかなり難しいことだとは思う。しかしアジアのアーティストたちはすでにトランスナショナルな発想に基づいて、さまざまな都市、さまざまな島で活動している。

アジアの舞台芸術はこの数年で劇的に流動性を増してきた。先ほど触れたTPAMは、アーティストや制作者が顔を寄せ合って集まるプラットフォームとして毎年2月に横浜で開催されており、異なる文化や文脈が遭遇・交換される場として機能してきた。日本の国際交流基金アジアセンターがそのサポートをしてきたという事実も忘れないようにしたい。そのTPAMに触発されるようにして、2017年には台北でADAM(Asia Discovers Asia Meeting for Contemporary Performance)が、バンコクではBIPAM(Bangkok International Performing Arts Meeting)が、それぞれ国際的なプラットフォームとして発足し、多様な背景を持つ作品が試演されたり、(不完全な英語で)活発な議論が交わされたりしている。そのADAMが開催された8月に、わたしは台北で何人かの日本人のアーティストや制作者に会った。日本人にとって、台北はもはや国交のない異国の一都市というより、身近なミーティングポイントになりつつある。

ADAMアーティストラボにおけるシェアリングの風景。ラボのキュレーションは石神夏希(写真右)が務めた。

しかし、このような急速なトランスナショナル化に、日本の舞台芸術のアーティストや制作者のすべてが乗ろうとしているわけではない。特に言葉を扱う芸術である(と信じられてきた)演劇では、TPAMを皮切りに海外渡航のチャンスが格段に増している一方で、日本語圏以外での活動に興味を示さない人々も少なくないように見える。ここにはおそらく「日本語」という大きな「見えない壁」が屹立している。英語が喋れないから(?)などの理由によって、日本語以外の情報をシャットアウトする。そんな別の種類のグレートファイヤーウォールが、「日本」という島を取り囲むようにして存在している。仮に国内での活動に軸足を置くにしても、その「日本語の壁」の中に閉じ込められていることに無自覚では、ただひたすらこのワースト・ブラック国の底なし沼に引きずられていくのではないだろうか。「壁」の外側の世界を知らなければ、その内側のこともわからないとわたしは思う。

「期待」のあり方を疑う

この原稿が発表されるまさにいま、わたしは上海の外灘美術館(Rockbund Art Museum)で新バージョンの『IsLand Bar (Shanghai) - The Butterfly Dream 岛屿酒吧(上海)─ 蝶蝶之梦』を上演している。横浜、マニラ、バンコク、ソウル、香港、そしてお膝元の上海からアーティストが集まって、ひとつの仮設のバーをつくり、観客と1対1のような親密な関係性のなかでそれぞれのパフォーマンスを行なっている。創作にあたってはいちおう英語が共通言語になってはいるものの、英語力も、得意とするコミュニケーションの仕方も人によってまったくバラバラだ。わたしは中国語はほんの少ししか聞き取れないが、幸いにして漢字の大部分は読めるので、ときには筆談を使ってコミュニケーションをとっている。観客との関係もそう。そこは舞台芸術。最終的には身体表現を通して、上海の観客たちの心や、その背後にある物語に触れられる、という手応えを感じている。酔っ払った観客、シャイな観客、英語が喋れる人喋れない人……。そのすべてを完全にコントロールしきるのは不可能であり、むしろ不完全でカオスな状況を楽しみながら、いかに声にならざる声を聞き、いかに予期せぬ邂逅を生み出せるか。この不完全さは、この作品のウィークポイントであり、同時にストロングポイントでもあるだろう。観客の可能性を引き出すこと。もし、ただ完成度の高いキレイなものをつくってしまったら(つくれないが)、上海のアート愛好家に消費されて終わりかねないという危険性をこの都市では感じる。上海はしかし、そのようなアート・ワールドの軽薄な「期待」が透けて見えるところがわたしは好きだ。何かに飢えている観客たちは、新奇なもの、面白そうなものを求めて、夜な夜なオープンするこの仮設のバーにやってくる。そしてそこにコミットしている写真(セルフィーとか)を撮ることで、この中国大陸屈指の大都市にいるみずからの存在価値を確かめようとしているのかもしれない。けれども、彼らが本当に求めているものはそのような軽薄な「期待」への見返りではないはずだ。アーティストたちはそれぞれのやり方で、上海の観客たちの表層的な欲望の奥底に眠っているものに触れようと試みている。すべての観客のそれに触れることは不可能だ。けれども、少なくとも何人かは……。作品のサブタイトルが示唆するように、観客が「蝶」へと変化(へんげ)する瞬間がある。この作品は、アート・ワールドに巣食う「期待」を返り討ちにし、それらを溶かし、新たな場を創出しようと試みている。

『IsLand Bar (Shanghai) - The Butterfly Dream 岛屿酒吧(上海)─ 蝶蝶之梦』[写真:藤原ちから]

上海の後は、APAF(アジア舞台芸術人材育成部門)の仕事でジョグジャカルタと東京に向かう。この2都市でアートキャンプを行ない、そのキャプテンを務めることになっている。東京での最終発表にはぜひこれを読んでいるあなたにも来ていただきたいのだが、いくら「プロセス重視のプログラムです」とこちらが主張したところで、来場するあなたは何らかの「期待」を抱いてやってくるだろう。それは至極当然のことだと思う。しかし、アート・ワールドにおけるある種の「期待」は、つくり手と観客との関係をあまり幸福ではないものにしてきたとわたしは思っている。その「期待」のあり方を疑い、固定化された関係性を脱構築し、お互いをヴァルネラブルな(傷つきやすさを備えた)存在として見ることができるよう、わたし(たち)の契約を結び直すことはできないだろうか?

この「期待」の正体は何だろうか? 「完成された美しい作品を観たい」とか「強度のある作品を観たい」とか「お金や時間を払ったぶん満足させてくれ」といった欲望は、日本の舞台芸術の観客(批評家含む)に深く根を下ろしてきたメンタリティではないだろうか。それは1980年代以降の日本の演劇が、消費と競争を促す高度資本主義経済の下で発展してきたことと無縁ではないだろう。また、鑑賞の際の判断基準となる美意識や、批評の語り口が、西洋から輸入されたスタイルに基づいていることとも深い関係があるように思う。しかしアジアは必ずしもそうではない。それはアジアが「発展途上」だからだろうか? そうかもしれない、もしも、日本や西洋のものさしで測るのであれば。けれどもその価値基準自体を疑い、「自分たちに必要な芸術は何なのか? どのようなかたちなのか?」を模索しているアーティストたちがアジアにはいる。もちろん、日本のなかにも。

先日台北で会った日本人アーティストたちのなかには、劇作家の西尾佳織もいた。彼女は帰国後、主宰する劇団・鳥公園の今後についてのステートメントを発表している。和田ながら(したため) 、蜂巣もも(グループ・野原)、三浦雨林(隣屋)という、それぞれ別の劇団を主宰する演出家たちを迎える体制に移行するという。「少なくともここから3年」と時間設定されているが、日本の演劇界の構造改革の実験としては、最低でもそれくらいの年数がかかるのは当然のことだと思う。

こうした一種のアーティスト・コレクティブはアジアの舞台芸術でもすでにいくつか生まれている。クアラルンプールのファイブ・アーツセンター、ジョグジャカルタのテアトル・ガラシ、バンドゥンのバンドゥン・パフォーミングアーツフォーラム、シンガポールのザ・フィンガープレイヤーズ、また時代の寵児になりつつある台北の明日和合製作所(Co-coism)、さらには上海での『IsLand Bar』でもコラボレーションしている草台班(Grass Stage)、月台小组(Tai Collective)、そして謎めいた存在として知られる组合嬲(ZuheNiao Collective)。マニラ/バギオを拠点にする演出家のJKアニコチェも、新しいコレクティブを準備している。こうしたコレクティブはメンバーが非常に若いか、もしくは創始者がベテランの場合でも若手がのびのびやれるよう、いわゆるヒエラルキーはなく、自主性が発揮できるような体制をとっている。若いということは、つまり可能性が花開くのはまだまだこれから先ということだ。数年後、アジアの舞台芸術は才能の宝庫になるかもしれない。それは、ひとりの天才によって生み出される平面的なアートシーンではなく、多種多様な才能によって織りなされる複層的なアッサンブラージュになるだろう。

右から筆者、そして共にコレクティブorangcosongを結成する住吉山実里、月台小组の张馨元と陈铿、上海外灘美術館キュレーターの谢丰嵘。


『IsLand Bar (Shanghai) - The Butterfly Dream 岛屿酒吧(上海)─ 蝶蝶之梦』
(「RAM HIGHLIGHT 2019: Before the Whistle Blows」展会場にて上演)

日時:2019年9月12日(木)〜21日(土)
場所:上海外灘美術館(20 Huqiu Road, Huangpu District, Shanghai)
公式サイト:http://www.rockbundartmuseum.org/en/exhibition/overview/f4ecrzv

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