フォーカス
【シンガポール】「History」への抵抗──
バイセンテニアル・イヤーとアーカイヴの実践
堀川理沙(ナショナル・ギャラリー・シンガポール コレクション担当副ディレクター/シニア・キュレーター)
2020年02月01日号
東南アジア全域にわたる膨大な近現代美術のコレクションを誇るナショナル・ギャラリー・シンガポール。作品だけでなく、作家や美術運動のさまざまな資料も収集されている。2019年10月、あらたに図書アーカイヴとしてそれらが公開された。ディレクション担当の堀川理沙氏に、アーカイヴとシンガポールがもつ社会的歴史的背景についてご寄稿いただいた。(artscape編集部)
いつを起点に歴史を語るか
ラッフルズ卿のシンガポール上陸から数えてバイセンテニアル・イヤー(200周年)となった2019年、政府は、シンガポールの歴史において重要な歴史的起点とされるこの出来事を「記念」する(祝祭ではなく)ための特別実行委員会を設置し、一年を通して、各所でさまざまな記念事業が開催された。その中核となったのが、フォートカニング・ヒルの会場で行なわれた「From Singapore to Singaporean: The Bicentennial Experience(シンガポールからシンガポリアンへ:バイセンテニアルの体験)」展である。映像プロジェクションや体感装置により、シンガポールの歴史を一大スペクタクルで提示した。しかし、バイセンテニアルを看板に掲げながら、植民地統治の起点ともいえるラッフルズの上陸から歴史を語り始めることにはさすがに躊躇があったと思われ、ラッフルズ上陸を更に遡る過去700年間の歴史に範囲が設定されていた。事前予約が必要という観覧の条件にも関わらず、30万人という当初の予想来場者数をはるかに超える70万人以上の来場者を数えて昨年12月に幕を閉じた 。単純計算でこれは560万人(2017年時点)のシンガポールの人口のうち8人に1人が訪れたこととなる。
From Singapore to Singaporean: The Bicentennial Experience
バイセンテニアルをテーマにした展示が官民さまざまな機関で目白押しのなか、歴史の語りをめぐって、シンガポールでは近年まれにみる論議が活発に交わされたのも昨年の特徴だった。そのひとつの契機となったのが、アジア文明博物館と大英博物館との共同企画展「Raffles in Singapore: Revisiting the Scholar and Statesman(シンガポールのラッフルズ:学者と政治家の再検討)」である。本展は、ラッフルズが東南アジアから植民地宗主国イギリスへと持ち帰り、その後大英博物館などに収集されたジャワ及びマレー世界の文物の里帰り展として企画され、バイセンテニアルの趣旨から言えば最も則した内容であるように思われるのだが、想定外に一部の来館者に激しい反応を引き起こした。例えば、会場を訪ねた気鋭の詩人・劇作家として知られるAlfian Sa’atは、facebookに次のように記している(以下、筆者による粗訳)。
「展示を見ながら、大いなる悲しみと怒りが沸々とこみ上げてきた。マレーとジャワの系譜を受け継ぐひとりの人間として、わたしは自分自身が展示物として扱われたように感じたのだ。展覧会がなぜコロニアルなまなざしをこのようにして再生産しようとするのか理解できなかったし、そのまなざしの矛先がまなざしを向けた当事者に投げ返されているかどうかも見えず、また現地の人々自身のまなざしが捉えた英国人の姿も見えなかった。私個人のジャワとの出会いが、なぜラッフルズに仲介されなくてはいけないのか。(……)近年、植民地主義の復興を仄めかす言説が現われつつある。なぜミュージアムがそのようなコロニアルなホワイトウォッシングに参加するのだろう。本当にラッフルズを弱体化させたいのであったら、展覧会などしない方がいいのではないか?」(2019年2月12日)
この書き込みは、その後、ソーシャルメディアからオンライン・メディア、実際の展覧会の関連シンポジウムでの議論へと飛び火し、展示の是非をめぐって熱を帯びた論議が交わされたAngkor: Exploring Cambodia’s Sacred City (アンコール:カンボジアの聖なる都への探求)」が、多くの面で本展と文脈や構造を共有しながらも、そのような反応が皆無であったことは、未だこうした議論が自らの歴史や国家概念の境界の内に限定されていることを示している。
。こうした一連の展開は、今日におけるシンガポールの観衆のHistory(大文字のH)に対する批評的視点の深化を示唆していることは間違いない。だが一方で、一昨年、同じ博物館で行なわれた、ギメ美術館との共同企画展「小さなhistoriesを語るためのアーカイヴ
さて、こうして公の舞台で生産される歴史の語りに対して、自らその語りを問い直し、構築しなおすための資源としてアーカイヴがあげられる。去る1月18日、クアラルンプールのマラヤ大学で美術史を教えるサイモン・スーンによって、デジタル・アーカイヴの実践に関するワークショップ「Researching Colonial History like a Millennial(ミレニアルのようにコロニアル・ヒストリーを研究する)」が行なわれ、筆者も参加する機会を得た。本ワークショップはマレーシアでは既に何回か開かれてきたが、シンガポールでは初の試み。オープンな姿勢でリサーチに向き合い、歴史的記述を読むことに関心がある人なら誰でも参加でき、その声かけに、栄養士、市場アナリスト、元司書、映画監督、舞台俳優、食文化研究者、ミュージアム・ボランティア、孫息子に歴史を伝えたい市民、グラフィック・デザイナー、美術館キュレーターなど、シンガポールに在住する、職種も民族も国籍もばらばらな参加者二十数名が集まった。
会場となったマレー・ヘリテージ・センター は、スルタン・モスクやショップ・ハウスが並ぶカンポン・グラム地区の中心に位置し、高層のオフィスビルや無機質な公共住居が連なるシンガポールの他の地区とは一味ちがう空気が流れる。絨毯が敷かれた講堂のリラックスした雰囲気のなかで、ワークショップは、参加者がそれぞれ事前にインターネットから選んだコロニアル・ヒストリーに関連する一枚の画像を紹介し、自分にとってその画像がどんな意味を持ち、そこからどんな物語を語りたいかを全員と共有することから始められた。
全体の進行は、スーンが現在作成を進めているリソース・ガイドを指針に(今年中にこのガイドは一般公開される予定)、旧植民地宗主国や独立を遂げた国々のオンライン・アーカイヴから、市井の歴史オタクや研究者が自発的に始めた草の根のサイトまで、幅広い範囲のアーカイヴ資源を紹介し、それらの膨大な情報の海を泳ぐなかで有効な翻訳ソフトの利用方法、また通常ではなかなか気付くことのできない各サイトの裏をかく閲覧方法など、プラクティカルな術を身につけることで、各参加者のデジタル・リテラシーの向上とエンパワーメントが図られた。そして、こうした実技的な演習過程の節々に、アーカイヴに含まれない、あるいはそこに隠された不可視なものの存在への意識や、歴史を書くことと道義性との関係、翻訳・翻訳者の役割など、歴史に向き合い取り組むなかで、クリティカルな視点を忘れないようさまざまな問題提議が行なわれた。
インターネットにより、情報へのアクセスは格段に容易となったが、しかし、それでも各地の政治経済、インフラ格差などにより、デジタルと実社会の分断化は収まるどころか、より進んでいるともいえる。また専門家と呼ばれる人々がすべて、デジタル技術がもたらす可能性を極限まで活用できているとは限らない。よい意味でのデジタル・ハッキングの術を知り、なおかつ、実際の時空間で皆で意見を交わしながら歴史に協働で取り組むことで、知らず知らずのうちに自身と他者とのあいだにはりめぐされていた垣根が取り払われていく。そんな不思議な解放感を覚えて会場をあとにした。
美術館図書アーカイヴ──美術史のなかのhistories
アーカイヴに関連して、私の所属機関ナショナル・ギャラリー・シンガポールでも、昨年10月、美術館の建物の隅に追いやられていたリソース・センターを常設展示室の中央に移動させ、新たな図書アーカイヴとして整備しなおし再オープンした
。当館は2015年に開館した東南アジアの近現代美術を専門とする比較的新しい美術館ながら、シンガポールの旧最高裁判所と市庁舎の建物を再利用していることから、歴史的雰囲気が濃厚に漂う。図書アーカイヴが新たに設置された空間も、かつては最高裁判所の法律図書館として機能していた。円形ドームを中心に空間が 円環状に広がるこの場所に、美術館図書アーカイヴの機能を持たせるにあたり、アーティスト一人ひとりそれぞれの声が、ともすれば威圧的でコロニアルな空間のなかに拡散し、共鳴しあうようなイメージでもって、所蔵資料から象徴的なアーティストの言葉をいくつか拾い上げ、円形状の棚や空間内の壁面に散りばめた。中央の円形テーブルを囲む展示ケースには、東南アジアの19世紀から20世紀までの歴史的出版物や図録、シンガポールを代表する近代画家ジョージェット・チェンの手稿など、所蔵アーカイヴの核となる一次資料を展示している。
また、図書アーカイヴの開館を機に、所蔵作品・アーカイヴ資料・図書資料を横断検索できるオンライン・データベースを公開した
。現時点で、アーカイヴが所蔵する資料は、現物・デジタルの両方を含め20000点前後。これらは過去数年にわたり、所蔵作品の拡張とともに、当館キュレーターと図書アーカイヴのスタッフが、東南アジア各地でさまざまな協力を得ながらアーティストやその遺族を訪ね歩き、少しずつ収集とデジタル化を進めてきたものだ。図書アーカイヴがオープンし、データベースが公開されても依然、情報整備・精査の課題は山積みで、これからも気の遠くなるような時間が必要だが、閉鎖的だった空間と資料のアクセス環境の向上に向けて、確実な一歩が踏み出せたように思う。以前と比べて、利用しやすく、可視化された図書アーカイヴとデータベースには、日々利用者からの問い合わせが寄せられている。大文字のHistoryを乗り越えていくためのアーカイヴの実践が、草の根から、そして公的施設においてもその内側と外から、いま探られている。
From Singapore to Singaporean: The Bicentennial Experience
会期:2019年10月31日(木)〜12月31日(火)
会場:Fort Canning Art Centre(5 Cox Terrace, Singapore)
Raffles in Singapore: Revisiting the Scholar and Statesman
会期:2019年2月1日(金)〜4月28日(日)
会場:Asian Civilisations Museum(1 Empress Place, Singapore)