フォーカス
オルタナティヴ・スペースが拡げる「活動の空間」
和田信太郎(メディア・ディレクター)/コ本や honkbooks
2020年07月01日号
東京・池袋に、「コ本や honkbooks」(以下、コ本や)という、一見すると本屋のようなオルタナティヴ・スペースがある。アーティストとブックディレクター、メディアディレクターの3人が共同で立ち上げ、さまざまな試みが展開されているこの「場」は、本屋という機能を兼ねながら、芸術活動の自明性に対してどのようなアプローチをかけているのだろうか。コロナ禍を経たこの時代に、アーティストたちが自らリアルな空間を運営していくことについて、主宰のひとりである和田信太郎氏に寄稿していただいた。(artscape編集部)
コ本やは、2016年6月に王子(東京都北区)で立ち上げ、その3年後の池袋(東京都豊島区)移転に至るまで、活動が始まって4年と間もないプラクティショナー・コレクティヴ(実践者集団)である。芸術におけるオルタナティヴを問い直すために、芸術活動で自明化されていることに関心を持ってきた。アーティストと社会の接点となる表現の場、もっとも身近であり歴史を持つ本というメディアの存在感、市場論理の迂回路としてのディストリビュートなど、「活動の空間」を拡げるためにコ本やとして何を考えているか、そのヴィジョンを紹介する。
1. 集うことのアクチュアリティを問う
新型コロナウイルス感染症の拡大によって、ウイルスの論理を強いられた世界では、人々に行動の制限が課せられた。否応なく「集うこと」は自粛するほかなく、途方に暮れることになる。コ本やでも店舗を休業せざるをえなくお手上げだった。外来するものを警戒しひたすら身近な内に留まって安全を確保しようとする規律が、今後の私たちに与える影響を考えると気が気ではいられなかった。都市に余白をどう与えることができるか。コ本やの立ち上げには、閉塞する都市への問いかけがあったはずだ。今回の大災厄では、集うことや移動することを否定された都市は以前とどう違うのか、コ本やとしても改めて向き合うきっかけを与えられた。
東京はその人口が1400万人近くに到達し、都市としての肥大化がいまだに進むことへの実感のなさがある。都市として機能しているのかと疑問をいくら募らせても、具体的に動いてみない限りは、何も見えてこないのが東京なのかもしれない。ただ何かをやるにもこの都市ではコストが大きくかかる。マーケティングに従って、需要に応えるほうがリスクを負わずに済むかもしれないが、それは都市と呼べるのか。東京で表現活動をするには簡単に何か閃いたことを試したり、考えていることを現わしたりする場が乏しいのは否めない。当然、表現のスケールやその内容や質にも影響してくるだろう。
表現の場を確保することの困難さから懸念されることは、共に集って考え、議論することの必要性を感じなくなってしまうことであり、場所がないことは考えるための余白を奪うことにもつながる。オンラインにそうした場を託すことができるのだろうか。どんなにリモートで互いに顔を合わせたり、SNS上のタイムラインで出遭うことができたとしても、画面越しにどれほどの言葉や身振りを交わせるか。あるいはタイムラインの外を想像することが容易ではないように、オンラインというのは私的領域や公的領域が問いにくい空間である。相手と互いに自分を現わし示すことで関係性がつくられるリアリティをハンナ・アーレントが「現われの空間」といったが、オンラインでは相手がいるようでいて、そこには言葉や行為があるに過ぎず、身体性が脆弱となるこの空間の特性には限界がある。
2. オルタナティヴであることの意味
コ本やにとって場を持つことは、都市における表現を再定式化し、実空間の意味を考え直すことでもあった。さまざまな人々がどのように交差するか、そのアクチュアリティをいかに注意深く形づくるかが活動の指針でもある。近しい問題意識をもったスペースも少なからずあるが、東京の規模を思うとオルタナティヴ・スペースがもっと活動しやすく増えていくことが望ましい。まだ若く経歴の少ない作家たちの台頭を積極的に後押しして、表現の実験を共に試していくことが、アート・マーケットとしてのコマーシャル・ギャラリーや、公的な機関としての美術館の制度や機能として内包されているとは言い難く、オルタナティヴ・スペースとしてのアドバンテージになるようにコ本やではその必要性を明らかにしようとしている。
コ本やのことを遊び場と表現する人がいる。プラクティショナー・コレクティヴとして、主宰する3人のメンバー(青柳菜摘、清水玄、和田信太郎)によるアーティスト活動、映像や書籍などのメディア・プロダクション、アートプロジェクトの企画、リサーチ活動など、スペースの運営だけに留まらない活動が、コ本やのスペースとしての創発性を高めているともいえる。またアーティストたちが多く関わり、一緒にスペースを運営していることで何かが起きそうな機運の高まりが遊び場として評価されているとすれば望ましいことだ。
書店の活動は、実店舗とウェブサイトで展開しているが、ここではZINEやリトルプレスのかたわらに古書があり新刊が並ぶ。さまざまな形態が入り混じることに重きを置きながら書籍を広く紹介することで、通常のマーケットや出版流通の考え方ではない、別の論理から立ち現われてくる棚の様相を愉しんでいる。出立の経緯がまったく異なるものを同じように取り扱うことで、相異なる尺度を受け入れることはコストもかかるが、出版という“publication”を言葉通りに引き受けて、些細ながらも公共という“public”について複数性のリアリティを問うていきたい。
コ本やは、立ち上げからオルタナティヴの可能性について検討を重ねてきた。アートスペースの包摂性は転じて閉塞を招きやすく、地域に根ざそうとするコミュニティ形成が排他的になる問題も存在する。どのように開かれたスペースをつくれるかを考えたとき、社会のなかで人がどう振る舞うのか、そのアイコニックな場を再考した結果、本屋であることに積極的な意味を見出した。ローカルなコミュニティとも無理なく具体的に接点を結びやすいのも本屋の魅力である。目的もなく誰もが立ち寄ることができる風通しの良さと、知識と経験を共有することに有効なプラットフォームとして、本屋はアートセンターでもあるのだ。
昨今の国内における芸術の言説をみるとわかるように、芸術と社会を再考する機会が増えても、いずれも表現行為、討議、特集などイベントベースの一時的な取り組みが多い。持続的にアーティストと社会を結びつけ、相互の関係性を促進していくことは同じように重要である。芸術表現というきわめて利己的な行為に裏付けされた活動が社会に与える力をちゃんと評価するためにも、美術館やコマーシャル・ギャラリーでは難しいコミュニカティヴな接点を求めて、世俗的な場から考えられることはまだまだあるはずだ。
3. 芸術表現の基盤 としての本
今回のコロナウイルス感染は人々の行動や生活様式に変化をもたらし、「移動」は咎められ、「距離」を取ることを求められた。喧騒のあった街に現われた不自然な静けさは、これまでの感染対策を明らかに超える規模の措置であることを示し、誰もがこの不可抗力からこれまでの社会や世界がどういうものであったか、その在り方を具体的に考えざるをえなくなった。オンライン、リモート、デリバリーなど、あらゆる活動やサービスがこれらの言葉と組み合わさり、家にいながらも著しく世界と関わる手段を見出していく。
芸術分野も同じように、世界的にさまざまな活動(美術館、博物館、劇場、映画館など)が作品の公開に留まらず、アーカイヴやラーニングプログラムの取り組みをオンラインでも展開できるように実施し始めている。ここには、こうした活動がオンラインでどこまで可能かという問題も当然あるが、根本には社会にとって芸術表現とは何か、という大きな問いかけがある。コロナ禍によって活動の機会が減少したアーティストや表現活動に従事する人々への、国や行政の支援に関する議論にも通じることだが、近年、ますます芸術活動のアカウンタビリティ(説明責任)が求められている。その一方で、説明しやすさの果てに表現活動の先鋭さや豊かさといったものを単純化し、短絡的な成果から活動の有益性を評価してしまうといった事態にも向き合いながら、芸術表現とは何か、その在り方を問い続けなければならない。
芸術は表現の伝え方を更新する活動であるが、社会がどのように成り立っているのか、ここを無視せずに考えるためにも、コ本やでは、もっとも身近な表現でもっとも歴史があるメディアとして「本」と向き合ってみることにした。いつでも読めて運びやすく、長期にわたって残存する「本」は、個人的に向き合うパーソナルなメディアであり、いつの時代においても不可欠である
知る、学ぶ、考える、伝える、表現するといった社会の根幹に関わる人間の活動は、「本」を抜きには考えることが難しい。自粛下でオンラインコンテンツやストリーミングサービスが充実する一方で、ネットワークを拠りどころとしたSNSやスマホの絶え間ない変化に疲弊して、「本」や「ラジオ」があらためて見直されたのも記憶に新しい。コ本やが新しい表現を追い求めながら、「本」に並々ならない注力を注いでいる理由は、その素朴さに隠された確固たる厚みにある。
誰もが手に取ることができる「本」は、芸術においても存在感を発揮してきた。カタログレゾネという作品情報を記載した目録、作家や批評家の作品批評や思索、研究者の理論や分析の研究成果、芸術運動のマニフェストやステートメント、表現行為を記録したドキュメント、制作のためのリサーチ資料、作家が制作するアーティストブックなど、「本」が芸術表現の
4. ディストリビュートという応答
グローバルに展開するアート・バーゼルといったアート・マーケットでは莫大な商取引が行なわれ、市場のメカニズムに基づいた売れる作品が芸術の言説に少なからず影響を与えている。そういった取引では、アート・マーケットの条件から外れてしまった作品を扱えるほど、オルタナティヴな市場が形成されているとは言い難い。その意味では、現在のアート・マーケットは独自の価値をつくり上げてきたともいえる。
一方では、表現者たちは自らの手で作品を商品化し、売買することに取り組んでいる。リトルプレスや小冊子といったZINEを手掛けて、ブックフェアなどのイベントや個人のネットショップで売ることもあれば、自らのスペースを立ち上げて、そこで作品を販売するといった表現衝動の溢れた活動もある。ただその活動の多くが、一時的なイベントベース、短期的な運営によるもので、ディストリビュートの意識の高まりに対して、それを常態化する仕組みがうまく成立してはいない。それ自体が表現であると考えることもできるが、既存の後追いが続くことよりも、価値を揺るがすほどの一石を投じることは容易いことではない。しかしコ本やでは、ほかなるディストリビュートを形づくることをひとつの目的として、オルタナティヴな活動が継続することの意味を考えている。
「本」はとても流通しやすい表現である。誰もがコレクターになり、また誰かの手に渉っていく、循環のメディアであり、国内外問わず保存に関するノウハウがとても多く、誰もが経験的に扱い方にも理解がある。表現を買うことは習慣化されていないようで、気軽に「本」という表現を買っていることは多くの人が忘れている。芸術作品は限られた人だけが理解できるものだ、といった考え方に陥るのは、こうした商習慣のなさや距離感に起因するところが大きい。映像やパフォーマンスといった販売のパッケージが難しい表現をどのようにして残していけるか、作品の経験とは何か、具体的な実践を考える議論やリサーチは、芸術作品の条件を問い直すことである。コ本やでは、アーティストたちとこうしたプロセスを行き来しながら、新たな仕組みを求めて、表現のかたちを追い求めている。
コ本や honkbooks
所在地:東京都豊島区池袋2-24-2 メゾン旭2F
公式サイト:https://honkbooks.com/