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バウハウス──101年目を迎えた造形教育のトランスミッション

暮沢剛巳(東京工科大学デザイン学部教授)

2020年07月15日号

1919年、ドイツの古都ヴァイマールでとある学校が産声を上げた。その名もバウハウス。小規模なうえに短命に終わったが、画期的なデザイン教育によって後世に多くの影響を与えた造形学校である。そのバウハウス開校から100年目の節目を迎えた2019年、日本でもそれを記念する多くのイベントが開催された。その一環をなすのが、2019年の秋から全国を巡回し、今月より東京開催(東京ステーションギャラリー)を迎える「開校100年 きたれ、バウハウス ─造形教育の基礎─」展である。
バウハウスは近代デザインに対して重要な問題を提起した教育機関であり、その活動はさまざまな観点から検討されてきた。だがタイトルが明示するように、本展の目的はもっぱらバウハウスにおいて行なわれた教育、とりわけ「造形教育の基礎」を再評価することにある。本稿でもその意図に即して、もっぱら教育へと焦点を合わせていこう。


ヴァルター・グロピウス《バウハウス・デッサウ校舎》(1925-26)[撮影:柳川智之(2015)]


カリキュラム──建築へと向かう課程

バウハウスの教育といえば、真っ先に連想されるのが三層構造の同心円の図である。外から予備課程→工房教育→建築の順になっているこの図は、バウハウスのカリキュラムに対応するものでもあった。バウハウスに入学した学生は、まず半年間の予備課程で造形基礎教育を受け、これに合格して初めて本課程の工房教育へと進むことができる。本課程では木、石、土、金属、ガラス、織物の六つの工房の中からどれかひとつを選択して徹底した技術教育を受け、それと並行して自然研究、素材研究、空間論、色彩論、構図論、構成・表現法、材料・道具論などの形態論を学ぶ。

ドイツの工房にはマイスター制と呼ばれる徒弟制の伝統があるが、バウハウスの工房ではこれに倣って手工技術を教える「技術マイスター」と理論を教える「形態マイスター」の2人のマイスターを置く制度が採用された。この工房教育で成果を上げた者が、ようやく最終目標である建築へと進むことができる。15年に満たない短い歴史のなかで、バウハウスの教育がすべてこのカリキュラムに則って行なわれたわけではないが(実際、3人の歴代校長がすべて建築家であったにもかかわらず、バウハウスのカリキュラムに建築が取り入れられたのはかなりあとになってからのことだ)、初代校長のヴァルター・グロピウスが「学習者の創造的諸力を解放し、素材の性質を把握させ、形態化の根本法則を認識させること」★1を目標に掲げていたその教育方針が、画家や彫刻家の養成を目的とした美術学校や、画一的な図案教育が行なわれていた工芸学校など、従来の造形教育と一線を画すものであったことは一目瞭然である。



1922年のバウハウスの教育カリキュラム図(「学校便覧」より、1922)


イッテン──既存の造形教育からの解放

では、バウハウスに赴任した個々の教員はそれぞれどのような教育を行なっていたのだろうか。周知のように、バウハウスでは多くの著名な作家が教育に携わっていたが、ここではヨハネス・イッテンとパウル・クレーを取り上げてみよう。この2人の教育について知るには、今年になって刊行された眞壁宏幹の『ヴァイマル文化の芸術と教育』が大いに参考になる。

イッテンがグロピウスの知遇を得るのはウィーンで私塾を開いていた1918年のこと。グロピウスの当時の妻アルマ・マーラーの紹介がきっかけであった。当時アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデからあとを託されるかたちでバウハウスの開設準備に奔走していたグロピウスは、美術学校ばかりでなく初等・中等教育の教員養成の経験も持つイッテンのキャリアに着目してマイスターとしての招聘を決断し、これに応じたイッテンは1919年10月からバウハウスの教壇に立つこととなる。

イッテンは「先入観や既成概念から解き放って学生の想像力を解放させること」「さまざまな材料を扱い、次の工房教育における専攻の選択を容易にすること」「形態や色彩に関する基礎的な知識を身につけること」の3点を基礎教育の目標として掲げていた。これは彼がかつてジュネーブの美術学校で経験した旧態依然とした造形教育への批判を背景としたもので、前述のグロピウスの教育観とも一致していた。バウハウスのカリキュラムの大きな特徴である予備課程も、この教育目標を実現するためにイッテンによって考案されたものであった。

朝の授業はリラックス体操や呼吸訓練によって始まるなど、イッテンの授業はかなり異色のものであったらしい。これは単なるウォーミングアップではなく、体と精神を活性化することも大きな目的であった。造形に生命を感じさせるためには、動きとリズムをその原理とする必要があるというのがイッテンの持論であった。本展に出品されているいくつかの学生作品にも、どことなくその影響が感じられる。



フランツ・ジィンガー《男性の裸身 (イッテンの授業にて)》(1919)、ミサワホーム株式会社蔵

だが当初は良好であったイッテンとグロピウスのあいだにもいつしか軋轢が生じ始める。これは、芸術と技術の結合を目指して2人マイスター制を採用したグロピウスと、手工芸を重視しマイスターは1人で十分と考えたイッテンの教育観の相違もさることながら、イッテンがマツダツナン教団というスピリチュアルな新興宗教に傾倒していたことも大きな原因であった。グロピウスはその影響力が拡大することを認めなかったため、結局イッテンは1923年にバウハウスを去ることになるが、彼の提案によって導入された予備課程の方法論はその後の教育にも引き継がれていった。

クレー ──形態と色彩の造形論

一方、1920-1931年の11年間にわたって、基礎教育を補充するかたちで、形態と色彩についての講義を行なっていたのがパウル・クレーである。当時クレーはニューヨークやパリで個展を開催し、シュルレアリスム展に参加するなど、作家としても多忙であったが、そのことを理由に手を抜いたりはせず、教育活動にも熱心に取り組んでいた。生来の几帳面な性格に加え、一時期同僚としてアトリエを共有していたワシリー・カンディンスキーの存在が大きかったに違いない。

バウハウスに着任した最初の講義で、彼は点、線、面、立体、色彩、並行関係などの絵画の構成要素を有機的に連関させる講義を行なった逸話が伝わっている。絵画を単なる幾何学的な構成ではなく、一種の有機現象として捉えるこの独自の絵画観には、1907年に誕生した息子フェリックスの絵を見続けた経験や同時代の心理学者ハインツ・ヴェルナーの影響が大きかったことも指摘されている。残された膨大な量の講義ノートも、彼の教育熱心さを物語るものである。



パウル・クレー バウハウス叢書2『教育スケッチブック』(1925)ミサワホーム株式会社蔵

本展では、ほかにもラースロー・モホイ=ナジ、ヨゼフ・アルバース、ワシリー・カンディンスキー、オスカー・シュレンマー、ヨースト・シュミットの授業の様子が資料や学生の作品と合わせて詳しく紹介されている。彼らの教育はいずれもユニークだが、なかでもアルバースとシュミットの2人はもともとバウハウスの学生であり、彼らが若くして母校の教壇に立ったこと自体がバウハウスの優れた造形教育の成果とも言えそうだ。

バウハウスに学んだ4人の日本人学生

他方、本展の重要な役割と目されるのがバウハウスで学んだ日本人学生の足跡の紹介である。バウハウスの先駆的なデザイン教育は早くから国際的な注目を集め、デッサウに移転した1925年頃には日本でも知られるようになり、留学を志す者が出現した。バウハウスで学んだ日本人学生としては、水谷武彦、山脇巌・道子夫妻の3人の名が以前から知られていた。本展では彼(女)らの作品が多数展示され、バウハウスの造形教育の成果を実際に確かめることができるほか(特に水谷が在籍中に制作したと推定されるコラージュには、バウハウスの構成原理が強く滲み出ている)、帰国後の教育活動についても紹介されている。加えて本展では、4人目の日本人学生として、ごく短期間だが1933年にベルリンに移転したバウハウスに在籍し、織物工房で学んでいた大野玉枝のことが紹介されている。ドイツ文学者の夫とともに2年前から渡欧していた大野は、ベルリンで交流のあった山脇夫妻を経由してバウハウス入学を志願したものと推測される。本展に出品されたテキスタイル作品はいずれも制作年不詳で、前後関係などからバウハウスの影響をすぐに視認できるわけではないが、4人目の留学生の作品を目の当たりにする貴重な機会には違いない。



水谷武彦《無題》制作年不詳、個人蔵

いまもひろがり続ける影響力

私が最初の開催地である新潟で本展を見たのは昨年9月上旬のことである。バウハウス展といえば従来はモダンデザインや著名な作家の作品に焦点を合わせることが多かったので、教育という側面にスポットを合わせた本展の切り口は新鮮であった。その前月には約1週間ドイツに滞在し、Bauhas100の案内を頼りにヴァイマール、デッサウ、ベルリンの3都市を中心に多くの展示を見る機会があり、また今年の1月には中国の杭州に新たに開館した国際設計博物館★2でバウハウス展を見てその国際的な影響力を改めて実感したところであった。それゆえ私は、1年後の東京で久々に本展と再会することを楽しみにしていたのだが、一時期展覧会は開催されないのではないかとの不安に駆られることになった。言うまでもなく、一連のコロナウイルス禍のためである。



デッサウ・バウハウスミュージアム★3外観(撮影時はまだ工事中)



ヴァイマール・バウハウスミュージアム★4外観



杭州の中国国際設計博物館外観



中国国際設計博物館 左:バウハウス100周年展看板 右:バウハウス展会場風景

バウハウスとパンデミック

ここで、バウハウスの開校がスペイン風邪が世界的に大流行した1918年の翌年であったことを思い出しておきたい。世界中を恐怖に陥れたパンデミックが同時代のバウハウスの理念に影響を及ぼさなかったわけはなく、それは例えば清掃の容易なマルセル・ブロイヤーの椅子のデザインなどに表われている。先に紹介したクレーの独自の教育方針にもスペイン風邪に感染した経験が反映されているのかもしれないし、丹下健三がバウハウスの強い影響下に建てられた山田守の代表作《東京逓信病院》を「衛生陶器」と罵倒したというエピソードさえも、敵視していたがゆえにバウハウスの本質を逆説的に指摘しているように思われる。



マルセル・ブロイヤー《クラブチェアB3 (ヴァシリー)》(1925/26)宇都宮美術館蔵

すでに述べたように、本展の主たる意図はバウハウスの「造形教育の基礎」の再評価にあったわけだが、一連のコロナウイルス禍は、期せずしてパンデミック後の世界にバウハウスのデザインが何を問いかけるのかという新たな問題を提起することになった。残念なことに現時点でコロナウイルスの感染終息は見通せないが、バウハウス開校時を彷彿とさせるこの状況を反転して、本展をデザインの役割を考える好機として考えてみたい。


参考サイト:Bauhas100(ドイツ)https://www.bauhaus100.de/
Bauhas100(日本)http://www.bauhaus.ac/bauhaus100/

★1──眞壁宏幹『ヴァイマル文化の芸術と教育』(慶應義塾大学出版会、2020、29頁)
★2──中国国際設計博物館はバウハウス・インスティテュートとともに2018年4月9日開館。設計はアルヴァロ・シザ。https://cdm.caa.edu.cn/
★3──デッサウ・バウハウスミュージアム。2019年9月8日開館。バウハウス・デッサウ財団のコレクションを展示。設計はAddenda Architects。https://www.bauhaus-dessau.de/
★4──ヴァイマール・バウハウスミュージアム。2019年4月6日開館。https://www.klassik-stiftung.de/bauhaus-museum-weimar/


開校100年 きたれ、バウハウス —造形教育の基礎—

会期:2020年7月17日(金)~9月6日(日)
会場:東京ステーションギャラリー(東京都千代田区丸の内1-9-1)
*チケットは日時指定の事前購入制(ローソンチケットのみの扱い)

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