フォーカス
泳ぐ彼女を観るあなたの眼差しを寝そべるわたしが視てあげよう、叩き割ってあげよう。そして……──ピピロッティ・リスト展に寄せて
北野圭介(映画・映像理論、社会理論/立命館大学映像学部教授)
2021年07月15日号
対象美術館
世界のあちこちの美術館で来場者数の記録をつくったのそうでないのといった噂話を耳にしていたし、なんかポップ・アイコンまがいの人なのかなあとも勘ぐったりしていたこともあって、2014年、PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015でピピロッティ・リストによるレクチャー
があるというので、学生と連れ立って出かけたことがある。そのとき、京都国立近代美術館の学芸員牧口千夏さんとおしゃべりできたことが愉快な想い出になっている。その牧口さんがキュレーションしているというリストの展覧会があると耳にして、いそいそと足を運んだ。2016年の「Pixel Forest」は、筆者程度のアートファンでも関わるニュース記事を目にすることがあって、いまどきのアーティスト集団がデジタル技術を用いて仕掛けてみせる少しばかり新味の派手な見世物に似ていなくもなく、どこがどう違うのかを見てみたい、という雑感も携えて、だ。
足を踏み入れた展覧会はそんな勘ぐりや雑感を小気味よく軽やかに裏切ってくれた。
見る行為と身体の運動
水の中に漂いながらこちらに向けられたまなざし、ガラスに顔を張り付かせながらこちらを見やる視線。あちらでうずくまる眼球、こちらで闊歩する瞳。ひとが見るという行為がかくも多彩であることに、ともかくもまず呆然と立ちすくんだ。
ひと昔前、つまりは前世紀の半ば過ぎあたりから、見ることをめぐる芸術上の問いかけは、「見る/見られる」という構図で語られていたし、そうしたテーマで多くの作品もつくられていた。それは、誰もが知っている。そんな構図がのどかに思い起こされるほどに、見る行為を映し出す映像の群れが、じつに多彩な形態で、四方八方で舞い、移り変わり、動きまわる。モノクロームから原色まで色とりどりに、絢爛といっていいほどに染め上げられた、見るという行為が折り込まれた映像の群れだ。より正確に言えば、見ることと見られることが、さまざまな行為の水準で縁どられ、追いかけられ、画像として物質化される、それらが、訪れた者の周囲に放たれ、飛び交い、取り囲む、といった具合なのだ。この絢爛に、「見る/見られる」という構図の思考はあまりにのどか、なのだ。
あらためて我が身を考えれば、見るという行為は、その作業を担う眼球、それを埋め込んだ頭部、さらにはそれを上部に据えた身体、それぞれ部位がなす運動と切り離すことなどできない。そんな当然の事実にいまさらながら殴られたかのように気づき、呆然と立ちすくんだのである。
とはいえ、だ。すぐさま、見る行為の絢爛に立ちすくむ余裕など崩れ去ってしまった。いくつかの作品が喚起する、見る行為をめぐる問いや問い返しが織り込まれた密度の濃さが、己の身体を激しく揺さぶってきたからである。絢爛などという言葉はあまりに素朴なフレーズだったかもしれない。
マネキンのトルソのように水着を着せられた球形モニター、その下部の大腿部が通るあたりを覗き込むように仕組まれているわけだが、そこで見出されるのは、文字どおりの人間身体の内部を映し出す映像だ。仕組まれているのは、覗く行為が行為として幾重にも階層化されていることに気づかされる罠でもある。覗くわたしが誰かに見られるという構造を問うデュシャンの作品やサルトルの哲学など、男性の視覚行為の裂け目を暴くには手ぬるいのではないかと訴えるかのような物質的な力でもって、だ。見る行為の多彩な形態は、そうなのだ、ただ絢爛なだけでなく、互いにぶつかり、すれ違い、重なり合っていくのだ。もっと言えば、訪れた者の視線や身体までもを巻き込んでいくのだ。重なり合うイメージが、その力を発動させて、その前に立つわたしたちのからだもこころも否応なく引きずり込んでいくと言えばいいだろうか。
ひとつの作品はこうだ。水の中で泳ぐからだの頭部に埋め込まれている眼球の動きは大きく見開いていて、誰かからの視線をうけとめている様子である。水面下で揺らめく絡み合う藻、そこかしこに流れる廃品、そんなモノたちとともに漂うわたしの臀部を、あるいは乳房を見やっているのではなかろうか。こちら側の視線を逆に見つめ返し凝視するかのようだ。
あるいは別の作品ではこうだ。目の前にある顎を頰をガラスに顔貌がゆがんでしまうほどに押し付けられている。わたしが口紅を塗った唇に向けられたかもしれないあなたの視線など跳ね返してやろう、わたしの唇や眼を眺めるあなたの視線を凝視してあげよう、とイメージは迫ってくるだろう。映像に織り込まれた多彩な見る行為において、多方向に放たれている視線はこれでもかこれでもかと、観る者の眼球運動も巻き込みながら絡み合い、うねっていくのである。
そんな視線の交わりや折り重なりのなかで、イメージは、見る行為を打ち砕きさえするかもしれない。クルマのドアの内側からに潜んでいるかもしれないこちらを見やる眼差しを穿つかのように、颯爽と闊歩しながらそのウィンドウガラスを棒で叩き割っていく、そんな映像が訪れる者に真正面から差し出されもしているのだ。「見る/見られる」の構図が多形的な拡散のなかに溶け出してしまった、そうであるにもかかわらず、いまだ、いや新しい衣をまとって、性差の政治はあちこちに巣食っているといわんばかりに。
アブジェクション(おぞましさ)の系譜
視覚に関わるテクノロジーの別の歴史を思いかえそう。半世紀ほど前であれば、つまり写真に映画、テレビくらいしかなかった頃であれば、見ることはわかりやすいセッティングのなかにあった。一方で、カメラを抱え被写体にレンズを向けることは特権的な作業(プロフェッショナルな作業)、そうでなくとも特別なタイミングの特別な作業(記念撮影)であり、他方、多くのごく普通の日常にあってはできあがった画像をアルバムなり、はたまた劇場なり受信機なりで慈しむという回路づけがあったのだ。いわば、視覚のテクノロジーには、撮る者と観る者の間で分業体制があったのだ。
ほどなくして、ビデオカメラとビデオ再生機という新種のデバイスが登場したが、そのとき、パーソナルな制作そしてプライベートな鑑賞というセッティングが切り開かれることになった。イメージ経験の新たな可能性が期待されることになったのだ。ヴィデオアーティストとも呼ばれたアーティストたちは、そうした期待の地平に新たなる造形の方向を見出して数々の試みを行なった。同時代を伴走していた美術批評家ロザンリド・クラウスが、それらの実践に対してナルシシズムへの横すべりが見て取れると批評の俎上に載せたのはよく知られているが、まるごとの批判というよりも可能性のさらなる掘り下げを模索してのことのようにも思える。
というのも、やがて、クラウスの慧眼はシンディ・シャーマンの作品のうちに、哲学者ジュリア・クリステヴァによる概念「アブジェクション(おぞましさ)」を20世紀初頭の稀代の思想家ジョルジュ・バタイユの論考を通して練り上げ直した「アンフォルメル」なものの一端を見いだすことになっていたからだ。ハンス・ベルメールの造形、いやジュゼッペ・アルチンボルドの絵画を幾重に重ね書きしたようなシャーマンの第二期の作品群にだ。それを承け、現代美術研究者クリスティン・ロスが、キキ・スミスの仕事など1990年代の一群の作品を「アブジェクト・アート」と名付け一括りにしたのもよく知られているとおりだ(興味深いのは、同時期に、ハル・フォスターが「リアルなものの回帰」と呼んだ作品群といくつかの作家が重なり合っていることだが、それがどのような違いであるかはここでは触れないでおこう)。クラウス、そしてロスが見逃さなかったイメージと画像をめぐるアートの新しい行方、その線上にこそ、わたしたちは、ピピロッティ・リストの面白さを見出していくべきではないかと感じる。
云わんとする先が明瞭ではないものの、捉えどころのない何ほどかのことをむやみにほのめかす「メディア」という語を避けておくべきかもしれない。この辺りの事情をしっかりとした輪郭を見定めていく手さばきが必要となるからだ。
個人のイメージ制作の地平は、21世紀に入りインターネットの爆発的拡大と各種デバイスの生活への急速な浸透と相まって、公共圏と親密圏の境界がなし崩し的に溶けはじめている。各種SNSにおいて、わたしの頭部や身体が据え置かれた画像は、わたしのものなのか、送り出した先の彼のものなのか。はたまた、あまり関係のないままに第三者のように脇見したあなたのものなのか。ナルシシズムはどろどろと溢れ出し、互いに交わり、混ざり合っている。理論家や批評家が言挙げする前に、イメージはすでに勝手に、主観と客観という言葉では汲み取れない混沌のなかのたうちまわっている。松井茂の言葉を乱用すれば、映像は「増殖」しつづけるのだ。
そうなのだ、ピピロッティ・リストに己を向き合わせ、視線を送り、それを見返される訪問者は、そうしたこんにちのイメージの生態系の混沌に、避けがたく投げ込まれるのである。
リモートでつくりあげられた映像展示空間
今回の展示は、靴を脱いで足を踏み入れ入場することから始まり、出口で靴を履き直すという次第からみても、展覧会全体がひとまとまりとなっている印象が強い。そのなかに、上記で触れた作品のほか、ベッドに寝そべり天井を仰ぐかのように見上げるイメージ体験や、せせこましい箱の内側を移動する画像を自身の体躯を丸めながら覗き込む箱庭型の作品、近年の多彩なデバイスを含め大小の生活家電が型取りされた壁に大きく(けれども斜めにずらして)投影されたコーナーなどが設けられている。さらにさらに、ソファや床あるいは壁や棚の間を種々雑多な画像がゆっくりと移動しながら投影される巨大なリビングルームのような小ホールほどの規模の部屋が最後に待ちかまえることになっている。
すなわち、独立した個別の作品の経験とは別の水準においても、展示空間がひとつとなって訪れた者を包み込むといった印象がきわめて濃厚なのだ。
コロナ禍で作品輸送や設営などの作業が難しくなっている昨今、この展示会場の実現には圧倒されるものがある。牧口千夏さんに聞くと、ピピロッティ・リストはこの状況下、来日し現場を訪れしつらえることが叶わなかったようで、であるからこそかえって、なんどもなんどもオンラインで綿密な打ち合わせを重ねられたとのことである。建築物の歴史や特徴、コーナー後に配される置物などのしつらえにいたるまでやりとりされ、きめ細かい数値や機材のスペックなどの指定も併せ精緻な展示設計の図面が送られてきた、ということである。それらは、美術館スタッフ、出入り業者の熱量あるサポートもあって、隅々にいたるまで配慮され、今次、練り上げられた空間として仕上がった。
むせかえるざわめきに身を投じて
先にも少し触れたように、前世紀の空気感とはちがって、21世紀も20年ほどが経ったいま、わたしたちの生はイメージにとり囲まれ、なかば一体とさえなっている。みんな、そのなかをかき分け、辿り着く先の見えないまま漂い、泳ぎまわっている。
不定形と形容されうるかもしれない姿でもって映し出された、水のなか藻をかき分けかき分けたゆたう身体の各部位の映像を、ベッドに寝そべりながら見上げ眺めていると、隣のベッドで横たわって天井を見やっている女性がゴホゴホと咳き込んだ。コロナ禍のなか、昨今の日常的なオンラインでのコミュニケーションにおいて(こころの緊張とは異なって)身を任せていた安逸にまどろんでいたかもしれない己の身体がピクピクとざわつく。見る行為を作動させる自身の身体とまさしく同じ態勢で、イメージを共有する異なる視線、そしてそれを作動させている異なる身体が文字通りの物質性をもって傍らに寝そべっていることに激しく動揺したのだ。これはいったいどういうことなのか。
小ホールのような最後の部屋の中には、祭壇のようにさえ見える壁の棚に配された種々の置き物に、フロアに並べられたソファやテーブルに、あちらこちらに設置されたプロジェクターから大小の映像がさまざまに投影され、ぐるぐると廻っていく。肌に染み込んでくるのは、イメージがなす波の狭間で滞留するぬるい窒息にも似た、むせかえるざわめきだ。己の位置も輪郭も確かめようがないというこころとからだ、そのざわめきだ。頭部などの部位の水準ばかりではないかもしれない。眼球運動が、いやそこに集まる視神経が、いやからだの平衡を保つはずの三半規管が、血液やホルモンの流れがグラグラとしているかのごとく、なのだ。それは、おぞましさなのか。はたまたポストモダンの際に謳われた不気味(uncanny)の再来なのか、わからない。とりあえず言えるのは、いまどきのアトラクションが興じる心地よい享楽とは遠く離れた、いや真逆のなにかであるということだ。
21世紀のイメージの氾濫が誘う享楽の裏側に、ぴたっと貼りついているむせかえるざわめきに出逢うことができる。そんなふうにひとり呟いた稀有な展覧会であった。
*本稿を書くにあたって、西橋卓也氏に多くの助言をいただいた。
ピピロッティ・リスト:Your Eye Is My Island─あなたの眼はわたしの島─
会期:2021年4月6日(火)~6月20日(日)(*新型コロナウイルス感染拡大防止のため会期変更)
会場:京都国立近代美術館(京都府京都市左京区岡崎円勝寺町26-1)
公式サイト:https://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2021/441.html
巡回展
会期:2021年8月7日(土)~10月17日(日)
会場:水戸芸術館現代美術ギャラリー(茨城県水戸市五軒町1-6-8)
公式サイト:https://www.arttowermito.or.jp/gallery/lineup/article_5142.html