フォーカス
「明治文学の彩り──口絵・挿絵の世界」展から垣間見る、その時代ゆえの挿絵画家たちの生態系
塚田優(評論家)
2022年03月15日号
対象美術館
現代において、イラストレーションを用いた広告や映像を目にしない日はなく、ごく身近な表現形態のひとつとして私たちの日常に息づいているのは周知の通りだろう。しかし、その描き手たちの職能の成立過程やその前史に目を向けたことがある人はごく僅かかもしれない。日本近代文学館で先日まで開催されていた「明治文学の彩り──口絵・挿絵の世界」展(2022年1月8日〜2月26日)は、文学作品とともに流通していった「口絵・挿絵」の数々を俯瞰することのできる貴重な展覧会だった。アニメーション、イラストレーション、美術を中心とした視覚文化全般を関心領域とする評論家の塚田優氏に、本展を振り返りつつ、メディア状況とともに変化していった挿絵画家の立ち位置や、そのアイデンティティ形成の手前にあったものなどについて論考を寄せていただいた。(artscape編集部)
詩は絵の如く?
文芸作品は絵とともにその歴史を歩んできた。例えば本の表紙には装画があしらわれていることは多いし、新聞や雑誌の連載でも挿絵が付いていることは珍しいことではない。もちろん作品によってはそのような構成にあてはまらない場合もあるが、文芸と絵の関係は現在に至るまで継続している。日本においては江戸時代に出版業が発達したこともあり、黄表紙などの読み物には絵師が挿絵を担当することが多かった。多色刷木版の洗練も含め、江戸時代につくられたこうした基盤は、明治時代に入ってもすぐには変わらず、慣例が守られていた。「明治文学の彩り──口絵・挿絵の世界」はそうした状況を考古学的に振り返りながら、それと同時に移り変わっていく挿絵の過渡期を提示する機会となっていた。
明治時代の口絵・挿絵は、日本画や浮世絵出身の描き手だけではなく、時代が下るにつれ洋画の素養を持った画家も参入してくるなど人材の多様化が起こったが、その仕事のあり方は、現代におけるイラストレーターのそれとは異なっている部分も多い。当時比較的一般的だったのは、文芸作品の作者が自ら下絵を描き、それをもとに絵師が絵を描くことである。これは江戸時代から続く慣習であり、例えば葛飾北斎(1760-1849)と滝沢馬琴(1767-1848)の不和は、一説にはこの下絵が原因だったとも伝えられている。会場に展示されていた坪内逍遥(1859-1935)や尾崎紅葉(1868-1903)の下絵複製には、登場人物の年齢や性格まで多くの情報が書き込まれており、その慣例は明治に入っても踏襲されていたことがわかる。このことからうかがえるのは、明治期の挿絵画家は「全く小説作者に隷属して居り」
、その創意を十全に発揮することが難しかったということである(その代わり画家たちは細かい描写や背景といったディテールに注力した)。また、挿絵などの制作は執筆と並行して行なわれるため、作者は構想段階の登場人物を絵師に伝えることもあり、完成した作品には登場しない人物が描かれるという事例も展示されていた。これらのことは、当時の挿絵が作者主導によって制作されていたことをうかがわせるだろう。挿絵画家の立場は作者だけではなく、彫師や摺師の存在によって相対化されてもいた。鰭崎英朋(ひれざき・えいほう/1880-1968)による泉鏡花(1873-1939)『風流線』続の口絵習作と完成した口絵を見比べてみると、水流の描写が異なっている。これは鰭崎が彫師に表現を委ねたとも考えられ、彫師の力量は絵の出来栄えを左右するほど重要なものだったことがわかるだろう。ほかに帯や着物の柄が絵師の描いたものとは異なっていたり、版の違いが線のニュアンスに影響している作例が展示されていた。摺の工程についても、版によって色数が異なるなどの差異があることが出品資料から確認できた。これらの事例からは、彫りや摺りといった工程が表現に占める割合の大きさが理解できるだろう。
メディアの過渡期≒表現の過渡期
明治時代の口絵・挿絵はその表現面からも注目できる。坪内逍遥は明治18年から刊行を開始した『当世書生気質』の挿絵を開始当初は浮世絵師・歌川国峯(1861-1944)に手がけさせていたが、洋画を学んだ長原止水(1864-1930)が、新しい時代の小説にふさわしい絵の必要性を坪内に働きかけ、第5回の挿絵を担当することになった
。展示されていた長原の挿絵を見ると、省略や明暗、奥行きへの意識がうかがえ、洋画の描法を自らのものとしていることがわかる。しかし坪内は「新らし過ぎて、どうも世間受けがしなかった。あの頃は矢張り浮世繪流の挿繪ではないと新聞でも喜ばれなかつたような有様」 であったことを述べている。維新から18年経った時点においても、人々の視覚は従来の浮世絵的なイメージの方に親しみを感じていたことを読み取れる興味深いエピソードだ。しかし明治も後半になると、中村不折(1866-1943)による伊藤左千夫(1864-1913)『野菊の墓』のようなモダンな口絵も登場するなど 、時代の移り変わりも確実に感じさせるのが明治期の特徴である。また、ほかには写真と合成を行なった挿絵 や、新聞小説の工夫が凝らされた組版など、過渡期だからこその多様さが感じられる資料が数多く展示されていた。多様な読解の集積としての挿絵
このように明治の口絵・挿絵は現代に比べると複製技術が未発達な部分が多く、加えてその工程も分節化されていた。大正・昭和と長きにわたり挿絵画家として活躍した岩田専太郎(1901-74)がキャリアの最初期を回想し、彫師が自分の筆使いを再現できていないことに不満を述べていることからもうかがえるように
、写真製版が普及し始める以前である明治の口絵や挿絵は、挿絵画家個人の仕事に還元できない、集団制作物としての側面があったと指摘できるだろう。だからこそここまで取り上げてきた挿絵などのイメージは、解釈学的な対象として、多様な読解に開かれているのだ。作者がつくり出す物語、絵師のこだわり、彫師の付け加える装飾的効果、摺師による色彩といった各エレメントをメタ言語として適切に位置づけることによって、明治期の挿絵への理解はより深まっていくだろう。例えば本文には登場しなかった登場人物の挿絵などは、物語の世界観の理解や作家の構想やテーマを考察するのに有用な材料を提供する。さらにこの解釈学に対する姿勢をさらに推し進め、ガダマーの言う「解釈学的普遍主義」の立場を取るとするならば、その対象は「人間の世界経験と生活実践の全体」
にも及ぶことになり、個別の考証的事実だけではなく、明治期の挿絵界を取り巻く産業構造や美術界の動向、異なる時代との比較などさまざまなアプローチから考えることが可能となってくるはずだ。表現者としての自我の目覚め
例えば大正と明治の挿絵を比較すると、大正期には製版技術の向上によって直接的に自らの画風をメディアに流通させることが可能になり、新聞連載においては挿絵画家の名前も紙面に表記されその地位も向上したが、これらのことは、挿絵画家たちに表現者としての自意識を植え付けることにつながった面がある。その傍証として、大正末に画料のこじれによって高畠華宵(たかばたけ・かしょう/1888-1966)と講談社の間で生まれた「華宵事件」や、昭和初期に挿絵の著作権について石井鶴三(1887-1973)が一石を投じた「挿絵事件」が挙げられるだろう。ゆえに挿絵史において明治時代は、こうした挿絵画家たちのアイデンティティが確立する以前に位置づけられるのであり、その理由の一端は、ここまで記述してきた作者主導の集団制作体制に求めることができるのではないだろうか。現在では挿絵、あるいはイラストレーションには、表現的側面が許容されているが、それは明治の口絵・挿絵には、必ずしも当てはまらないのである。
このような歴史的な経緯は、挿絵画家を個人として回顧、評価するような展覧会では強調することが難しい観点であり、このたびの企画は、近代出版の産業面に目を向けさせてくれる稀有な機会となっていた。テキストとイメージの関係性については西洋の知的伝統においても繰り返しそのパラゴーネが議論されてきたが、明治時代の口絵・挿絵には、両者の模倣しあう関係だけではなく、明治維新以降の加速化するメディアサイクルのなかで、さまざまな構造的要因によって変容するイメージの諸相が提示されているのである。
明治文学の彩り──口絵・挿絵の世界
会期:2022年1月8日(土)~2月26日(土)
会場:日本近代文学館(東京都目黒区駒場4-3-55[駒場公園内])
公式サイト:https://www.bungakukan.or.jp/cat-exhibition/13436/