フォーカス
震災後から「災間」へ──複数の災禍に架橋するメディアをつくる
佐藤李青(アーツカウンシル東京 プログラムオフィサー/災間文化研究)
2022年09月15日号
私たちは無数の災禍の「
筆者は、2011年の東日本大震災を機に東京都の芸術文化による支援事業の担当として、東北と東京を行き来してきた。その経験のなかで見えてきたものは、この「災間」の社会を考える手がかりになるのではないかと考えている。
平時と非常時を地続きに考える
震災は、東京で経験した。そのとき、目の前の窓から見えた道路標識が、大きくしなり、ゆっくりと揺れている光景をよく覚えている。その3カ月後、現在の職場に着任し、東京都が東北の支援事業を準備していることを知った。それから10年、2021年3月の事業終了まで「東京都による芸術文化を活用した被災地支援(Art Support Tohoku-Tokyo、以下ASTT)」を担当することになった。ASTTは、東北へ既存のプログラムを持ち込むのではなく、現地でパートナーを見つけ、地域の実情に合わせた事業を立ち上げ、複数年かけて伴走するものだった 。誰と何をするか? どんな課題があり、次の一手として何が必要なのか? 東京と東北を、何度も往復するなかで考えることになった。
2011年6月末、初出張では、宮城県の仙南地域にあるえずこホール(仙南芸術文化センター)の「藤浩志とカンがえるワークショップ」に参加した。美術家の藤浩志とともに北は宮城県の南三陸町から、南は福島県の新地町までの沿岸地域を巡るものだった。実際に現地を歩き、人に会い、参加者とディスカッションを行なった。学校が避難所になり、その運営にあたった校長先生、津波の被害を受けたあとに自力で自宅を再建した家族、夏祭りを再開しようと奮起する人たち、仮設住宅で活動するアーティスト……すでに動き出している人たちがいた。
ワークショップで巡った場所の多くは、公立のえずこホールが対象とする行政区域の範囲外だったが、震災を受けて越境した活動が認められていた。その迅速な判断を支えていたのは、震災以前から通底していた理念と実践の蓄積だった。えずこホールは震災以前からホール内での主催公演を大幅に超える数のアウトリーチを地域のさまざまな場所で展開していた
。そこには、文化施設が地域の警察や医療機関のように、住民にとって必要な社会機関としての役割を果たすべきだという考えがあった。それゆえ、普段は芸術活動が行なわれる場所ではない教育機関や福祉施設に「出向く」ことに重きが置かれていたのである。アートに何ができるのか? 平時から、そう問うてきた人たちの動きは早かった。それは、えずこホールに限らず、震災当初に出会った人たちに共通することだった。震災から5年ほどの間にパートナーとして事業をともにしてきた人たちのインタビュー集『6年目の風景をきく 東北に生きる人々と重ねた月日』(アーツカウンシル東京、2016年9月)を制作したとき、そのことを実感した。インタビューでは震災以前からの話を聞いた。
震災後に現われた困難の多くは、震災以前の社会が内包していた課題が露わになったものだった。同様に震災以前に蓄積された実践の真価は、震災後に発揮された。それらは、平時の社会を再考する契機になりうるものだった。しかし、急速に戻ってくる日常のなかで震災後の実践は「特例」となっていった。物理的な復旧に伴って制度運用も日常化していったが、その多くは「以前」の枠組みが戻ってくることを意味した。「もう復旧したんだから、本来の仕事をするように」。震災後に既存の枠組みを越境し、奔走した人たちは動きづらくなっていった。
非常時の経験を、平時の仕事に位置づけ直すことは難しかった。震災の経験を踏まえ、以後の活動を変えるための問い直し作業はエネルギーがいることだ。ただでさえも、被災によって、現場の体力は落ち、業務量は増えていた。それでも、震災直後に「気がついた」人たちは動き続けていた。制度や組織運営など「戻ってきた」管理側の論理と、目の前の人や状況に応答した現場の動き方は、ときに軋轢を生んだ。やむなく現場を離れる人たちもいた。
「自分がやっていることが正しいかどうかはあとでわかればいいと思っていたけど、いつまで経ってもわからない」。『6年目の風景をきく 東北に生きる人々と重ねた月日』でインタビューをした八巻寿文さんは、震災直後の経験を思い返して、そう語っていた
。直後の経験を置き去りにしてしまっているのではないか? 時が経っても、この問いは頭の片隅で響き続けている。災禍の経験はリレーする
「まるで未来から来た人のようだ」。2016年に熊本地震を経験した人たちが、仙台で震災を体験した方へヒアリングに訪れたときに、そうつぶやいたのだという。これから熊本で起こることを予言のように語る姿に驚いたのだった。2011年以降も各地で大規模な災害は続いた。それは「東日本大震災」の経験が忘却されることへの危機感ともつながっていった。震災を体験していない人たちに、どう伝えるのか? 沿岸各地では「二度目の喪失」ともいえる大掛かりな造成工事が行なわれるなか、メモリアル施設の建設も話題に挙がるようになっていった
。2015年は阪神・淡路大震災から20年を迎えた年だった。いま振り返ってみれば、震災後の東北に関わってきた人たちにとっても、震災体験の継承や復興の終わりについて考えるタイミングになったのではないかと思う。震災直後から1995年の震災を経験した人たちが現場に訪れていたことは、よく聞いた。未曾有の経験とはいえ、そこには先輩たちの姿があった。初動が早かった人たちのなかに、過去の経験が息づいていることも知った。それは必ずしも成功体験ではない。「あのときは、何もできなかった」。そんな語りが個々の実践を後押ししているようにも思えた。
2017年から、「東北の風景をきく」をテーマとしたジャーナル『FIELD RECORDING』を発行した。静かに変化していた「いま」を記録するために逐次刊行物という形式をとった。本誌では、ASTTに関わる人たちの「隣」にいるような人たちに取材を重ねた。地域や関心が近しい人たちのことで意外と知らないことは多い。そこでメディア制作を通して人に会い、誌面で企画を組むことで新たな関係づくりの場をつくった。それは東京という「外側」から関わる役割として、自分たちがメディア(媒介者)となることでもあった。
新たな記事だけでなく、震災直後の日記やメモ、過去に別の媒体で発表した文章など記録性の高い記事も掲載した。誌面であれば異なる時間や場所の出来事も同列に並べることができた。震災の経験は、ほかの災禍に目を向ける動機をつくったのだろう。号を重ねるごとに、さまざまな災禍にまつわる話題が増えていった。
第4号の特集は「出来事を重ねる」。異なる災禍にまつわる表現や活動を掲載したが、2011年の震災は、それらの活動の担い手の人たちにも変化を与えていた。1995年から10年間、手記集を発行し続けた「阪神大震災を記録しつづける会」は、東日本大震災をきっかけに奮起し、20年目に新たな手記集をつくった。原爆の図丸木美術館は、2011年以降、現在の社会に切り込むような現代作家が展覧会を開く場となっていた。ひとつの災禍は、同時代のなかにある別の災禍の意味を変えていた。その応答の可能性に気がついた。
時間が経ってから、語り出せることがある
震災から10年目は、コロナ禍の1年目のなかで迎えることになった。外部支援には、いつか終わりが来る。ASTTが、この年を節目に事業終了することは数年前から予期されていたことだった。構想していた「節目」の企画はオンラインに変更となった。
ASTTの事業サイトをウェブマガジン風に改修し、それぞれのコンテンツを企画として立てることで、震災にかかわってきた東北内外の人たちが交差するメディアづくりを試みた。その場を介して生まれたネットワークは事業を超えた活動を生み出すかもしれない。そしてサイトに記録された人や活動は今後のアーカイブになるだろうと考えた。
企画のひとつでは、東日本大震災にまつわる「10年目の手記」を集めた。最初の手記は大阪から届いた。茨城県の執筆者が多かったのも特徴だった。「被災地」の中心となった東北に隣接していたがゆえに語ることができなかった被災体験があった。それ以外にも時間が経つことで「当事者」への配慮のくびきから解き放たれたように現われてきた手記の多様さに驚いた(もちろん、それも当事者性の現われだ)。
届いた手記は、配信企画「10年目をきくラジオ モノノーク」で朗読をした。「私が話しているかのようだ」。劇作家の中村大地さんが演出した俳優の声を聞いた、ある執筆者は、そう語っていた。文字が声になると、手記の印象は変わった。そして、その声は、次の執筆者の呼び水となった
。聞き手がいることで、語り手は生まれる。そうして残った語りは、読み手がいることで、また誰かに受け渡されていく。その「読み」の可能性は、後に『10年目の手記 震災体験を書く、よむ、編み直す』という一冊の本に結実した。
しつこくかかわり続ける──震災後から「災間」へ
東北に対して、東京という「外側」の立場にあったはずの自分自身が、いつの間にかの東日本大震災にまつわる話題の「内側」にいるように見られることが増えた。「東北は、いまどうなっているのですか?」そう、東北以外の場所で聞かれるようになり、コロナ禍になって「東日本大震災のときは、どうでしたか?」と問われるようにもなった。そうして語ることが「震災後の東北」だけの話として受け止められてしまう危機感をもつようになった。ほかの災禍の経験と橋をかける伝え方が必要だと思うなかで、手がかりにしたのが「災間」という言葉だった
。2021年に「災間の社会を生きる術(すべ/アート)を探る」というタイトルを掲げたディスカッションシリーズを企画した。もともと「災間」は、繰り返す災害と災害の「間」を生きる社会を指す言葉だった。しかし、各回3時間、全6回の濃密なディスカッションを経て、その意味は「災いのなかを生きること」へと広がっていった。ディスカッションのナビゲーターをともに務めた兵庫県立大学大学院減災復興政策研究科准教授(当時)・宮本匠さんは、次のように「災間」を整理している
。(1)災いと災いの間というよりも災いのなかを生きるということ
(2)解決には『人類』の単位での連帯を必要としていること
(3)対処には時間の制約があること
(4)社会資源が縮小するなかで対応しなければならないこと
(5)災間という不都合な事実を「見なかったことにする」否認が事態を悪化させること
自らが渦中にいることを自覚するのはしんどい。向き合わざるをえない事態は、ひとりではどうしようもないという無力感を抱いてしまうようなことでもある。だからこそ、誰かと手を携える必要がある。一方で、その現状認識は、いまも誰かが抱える困難に気がつき、そこに触れようとする態度も育むことだろう。
災禍のあとには人が「ともに生きる」ための方法が生まれてきた。「被災者」というラベルからではなく、一人ひとりの個人と向き合うこと。目の前の他者の語りに耳を傾け、表現として遠くの人へ伝えようとすること。土地の記憶を掘り起こし、現在を生きる人たちと共有可能なかたちをつくろうとすること……震災後の東北で見てきた風景と重なる、その文化的な「術」を広く共有していくことが、災間の社会には求められているのだと思う
。私たちは「主体」というより、「メディア」(媒介、回路、培地)であると捉えるのが妥当ではないか……(中略)……災間の社会を生きる術とは、生み出される実践に誠実なメディアたる“ふるまい”をその都度獲得していくものではないか
ディスカッションの最終回で、もうひとりのナビゲーターの社会心理学者・高森順子さんは、このように語っていた
。複数の災禍の経験を行き来するようなメディアとしてのふるまいをつくっていくことが、これからの課題だ。そして、そのふるまいこそが、私自身が震災後の東北に、これからもかかわり続けていく方法になるのだと思っている。