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【ケルン】デジタルとアナログを批評的に往還する──チョイ・カファイの〈テレプレゼンス〉
内野儀(演劇研究/学習院女子大学国際文化交流学部教授)
2023年09月01日号
今年の初夏にドイツの2都市で開催された「Theater der Welt(世界演劇祭)2023」は、そのプログラム・ディレクターを芸術公社の相馬千秋氏が務めたことで日本国内でも話題になった。こうした例も筆頭に、長い歴史をもつ欧州の伝統的な劇場や演劇祭・音楽祭などの場では近年、日本を含むアジアのアーティストによる作品がますます多く上演されているのは周知の通りだろう。
そんななか、ドイツ・ケルンで5月に上演されたシンガポールの演出家チョイ・カファイによる『イーシュンは燃えている(Yishun Is Burning)』。デジタル技術の介在する身体と、それを覆うシャーマン的なスピリチュアリティをダンスの一要素として扱う本作を、アナログの殿堂ともいえる場で上演することによって生まれるものについて、在外研究の一環で現在ベルリンに滞在中の内野儀(学習院女子大学国際文化交流学部教授)氏よりご寄稿いただいた。(artscape編集部)
デジタルに〈到達〉した舞台芸術
毎年夏、ドイツ・バイロイトで開かれる、リヒャルト・ヴァーグナー(1813-83)の歌劇・楽劇のみを祝祭劇場で上演するバイロイト音楽祭。7月・8月の短期間だけなので、チケットがきわめて取りにくく、何かと話題になることが多いことでも知られる。
演出については、1970年代後半からの主流となる「演出家の時代」の流れを受け、先端を切り開くとされる演出家を招くことが多い。そのため、解釈上の斬新さのみならず、技術的にも映像などの導入は早くから行なわれていた。
その音楽祭の今年の話題は、生前、ヴァーグナーがバイロイト祝祭劇場以外で上演してはいけないとした舞台神聖祝典劇『パルシファル』にAR技術が導入されたことだ。ARスマートグラスをレンタルして観劇する券種がつくられたのである。タキシードとイブニングドレスがいまでもある程度デフォルトでありながら、冷房装置は当然なく、舞台下にオーケストラ・ピットがあるという特殊な舞台構造に加え、音響効果のために木造の観客席のままの劇場において、である。
プロジェクション・マッピングは言うに及ばず、イマーシヴ(没入型)技術を導入した舞台作品は、周知のようにすでに数多くあるわけだが、〈伝統の最高峰〉、アナログ的伝統の保守としてのバイロイト祝祭劇場でさえ、AR導入まできたか、というのがわたしの正直な感想だった。開幕よりも早めに来場してスマートグラスの調整をするだけでなく、観客にいままでとは異なる〈鑑賞の身体〉を強いるからである。
まったく異なる文脈であるが、この〈アナログの殿堂〉へのデジタル技術の〈到達〉という事態と、ほぼ正反対にも見える事象を、わたしはこの5月、ドイツ・ケルンで目撃していた。シンガポール出身でベルリン在住でもあり、日本にも何度か紹介されたことがあるアーティスト、チョイ・カファイの『イーシュンは燃えている(Yishun Is Burning)』である。
チョイ・カファイとは何者か?
チョイ・カファイは2004年、シンガポールのラサール芸術大学卒業後、2011年にロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートで修士号を取得している。大学院在籍中から人間の脳波と身体の関係に注目した研究的実践を行ない
、ほぼ同時期の2010年にはシンガポールのナショナル・アーツ・カウンシルからヤング・アーティスト賞を授与されるなど、その名を知られるようになっていた。2014~15年までのベルリンでのアーティスト・イン・レジデンス活動以来、現在その活動拠点とするドイツ・ベルリンとの関わりも深い。カファイの活動の特徴は、比較的大きなテーマを掲げて数年間にわたるプロジェクトとして継続的にリサーチを行ないつつ、その成果を展示ないしは上演として実施していくスタンスである。ロンドン在住中に始動したプロジェクトが、「未来の身体についての趣意書(Prospectus For A Future Body)」で、その一環としてカファイは、日本でも上演を行なった。2011年、東京芸術祭での『ノーション:ダンス・フィクション(Notion: Dance Fiction)』である 。
本サイトでも評が出ているので詳細はそちらに譲るが
、20世紀を代表する舞踊の名手の映像からその身体/筋肉の動きをデジタル的に解析してデータ化し、舞台にいる現実のダンサーにそのデータを電極を介して電気信号で送り、「歴代の名手」と同じ身体の動きを「やらせる」という、きわめて危うい試みだった。本サイトの評も意見が分かれたが、そもそもそんなことができるわけがないと考えると否定的にならざるを得ない──実際、フェイクである。ただ本作の根底にあるのは、〈芸術〉としてフレームアップされて特権化された個人とその身体/運動が、ほんとうに固有なのか、という相対主義的問いである。そして、〈いま、ここ〉で運動する固有の身体の受容知覚の問題化である。と同時に、〈科学〉への懐疑も同時に喚起するのが、カファイの批評性だった。
「ソフトマシーン」へ
2012年からは、「ソフトマシーン」というプロジェクトに取りかかる。アジアの5カ国13都市を訪れ、コンテンポラリーダンスのつくり手たちと出会い、インタビューを行なうのである。こうした出会いを通して、カファイは88人の振付家、ダンサー、キュレーターとのインタビューの映像アーカイブを独自につくり上げることになった。
プロジェクトの成果は二つのパターンで展開された。ひとつは、中国、インド、インドネシア、シンガポール、日本のダンサーを追ったインタビュー映像とダンス・ドキュメンタリーによる展覧会。もうひとつは、レクチャー・パフォーマンスの枠組みで、ドキュメンタリー映像の上映と実際のダンスの上演が続くシリーズである。
日本には、2016年のYPAMに前者が、2017年にKYOTO EXPERIMENTにおいて、2部構成の『ソフトマシーン:スルジット&リアント』が上演された。インドとインドネシアの2名のダンサーを取り上げた「部分」の上演である。最初にスリジットが、引き続いてリアントをフィーチャーした本作については、本サイトで髙嶋慈が的確な評を寄せている。
本稿の文脈で注目すべきは、ここでのカファイの関心は、ひとまず身体/運動そのものにあることだ。といっても、〈受容する「西洋」=シンガポール人としての「わたし」〉という特定の視座から見たアジア的身体とダンスである。その視座から二人を追ったカファイ自身によるドキュメンタリー映像と、それぞれの舞踊についてカファイが観客とともに〈学ぶ〉レクチャー・パフォーマンス部分がまず上演される。そして、それぞれのライヴのパフォーマンスが続くという流れである。ある特定の視座から十全に文脈化/距離化してから、二人のダンスを見るという体験がようやくできるという、批評的な手続きを経たうえでの作品だったのである。
再びデジタルへ
次の作品は「ソフトマシーン」の延長線上にあり、2017年のリサーチから始まり、日本での何度かのワークインプログレス公開を経て、2018年6月にドイツ・デュッセルドルフで初演された『存在の耐えられない暗黒(UnBearable Darkness of Existence)』である。
舞踏の創始者とされる土方巽(1928-86)が今回のカファイのテーマである。土方の墓地を訪ね、また青森県の恐山でイタコに呼び出してもらった土方の〈霊〉にインタビューする様子を映し出すドキュメンタリー映像で始まる本作は、「未来の身体への趣意書」と「ソフトマシーン」を合体させたつくりである。イタコに扮した俳優が登場するが、舞台にはモーションキャプチャーを全身につけたダンサー(捩子ぴじん)がいる。そして背後は全面スクリーンで、そこに精細な3D映像の土方のアバターが登場して踊ることになる。
年代別に土方の舞踏の特徴をダンサーのリアルな動きでフォローしつつも、『ノーション:ダンス・フィクション』とはベクトルは逆で、捩子が再現的にトレースする土方の動きをキャプチャーした映像上の土方のアバターが、同時に踊ることになる。ボカロ曲まで使いながら、捩子のライヴの動き以上に、勝手にその数を増殖してしまったりする3Dアバターが、作品後半に向かって、より存在感を増すことになる。高嶋慈が本サイトで的確にこう指摘する。
『Notion: Dance Fiction』では、映像から抽出された(とする)「電気信号」がダンサーの身体に憑依する一方、今作(※引用者注:『存在の耐えられない暗黒』)では、生身のダンサーの動きから3Dアバターへと変換された運動がスクリーンの中に生起する。ベクトルは逆で、「科学的根拠」か「スピリチュアルな霊的世界」かの違いはあるが、ともに映像的身体の亡霊性を扱っている。
そう考えると、終盤にボカロ曲が使用された理由も納得がいく。ボカロも「生身の身体を持たない」存在であり、「ダンス」は生身の固有の身体を離れても存在可能なのかという問いが浮上する。物理的制約や肉体的衰えの影響を受けない3Dアバターを自由自在に踊らせれば、新たな「ダンス」の地平が切り開かれたと言えるのか?
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「テレプレゼンス」へ
「新たな『ダンス』の地平が切り開かれたと言えるのか?」と髙嶋は問うていた。その後カファイがコロナ禍を通じて取り組んだプロジェクトは「コスミック・ワンダー(CosmicWander)」(2018-)と題され、テクノロジーの(と)身体よりもシャーマニズムという「スピリチュアルな霊的世界」(髙嶋)へのより強い関心をみせている。
プロセスは「ソフトマシーン」とほぼ同様で、シベリア、ヴェトナム、シンガポール、台湾、インドネシアなどを回り、50名以上のシャーマンにインタビューして映像化するのである。その成果の一端は、2021年2月のシンガポール美術館、2022年の「8月のダンス」(ベルリン)で「コスミック・ワンダー:遠征(Cosmic Wander: Expedition)」の展示として紹介された。
同時に、個別の作品としてのパフォーマンスも展開している。そのうちのひとつが『イーシュンは燃えている』(初演は2021年)で、ツアーとして巡回していて、2023年5月ドイツ・ケルン劇場(Schauspiel Koeln)で、わたしは見る機会を得た。
イーシュンはシンガポールの最北部にある町で、人口密度が異様に高い混沌とした多宗教地帯である。当地での火祭りが前半、ドキュメンタリー映像で紹介される。中心になるのは、トランス状態になるシャーマンたち。インタビューは、道教とヒンドゥー教の両方をひとりで担う女性のシャーマンへ行なわれる。
舞台には、ノルウェー出身のタイ人ダンサー、サン・ピタヤ・フェフアン(別名アマゾン・サン・ラベイジャ、Sun Phitthaya Phaefuang[a.k.a. Amazon Sun Labeija])が登場する。伝統舞踊を踏まえたコンテンポラリーダンスの名手で、ヨーロッパとタイを往復する活躍をしつつヴォーガーとしても人気がある。
スクリーンにはシンガポールのバンドNADA(リズマン・プトラ[Rizman Putra]とサフアン・ジョハリ[Safuan Johari])とシンガポール出身の中国系ドラマー、シェリル・オング(Cheril Ong)がリアル配信を装って控えている
。このバンドとドラムによる絶叫系の激しい音楽が、フェフアンのダンスと併走する。前半はフェフアンによる特に奇をてらわないダンスである。その後、フェフアンが出自を自ら語るインタビュー映像から、イーシュンで一種のイニシエーションを受けて、トランス状態なのか、いつも通りの優雅でかつダイナミックなダンスなのか、もはや判別のつかないダンスをイーシュンの火祭りで踊る映像を、実は前半で見ていたことが理解できる構造になっている。
さらに、前半と同じシャーマンが、今度はヒンドゥー教のシャーマンにもなった経緯を語るインタビュー映像が流れ、それから舞台に再登場するフェフアンは、『存在の耐えられない暗黒』の捩子ぴじん同様、モーションキャプチャーを全身にまとい、その動きが3Dアバターによって、背後のスクリーンに投射される。アバターはヒンドゥーの女神カーリーである。
そして最終場面、サンはヴォーガーでもあるので、地元──今回の場合はケルン──のヴォーギング・コミュニティに声をかけて応募してきた4名とともに、クライマックスのヴォーギングなのかコンテンポラリーダンスなのかわからない華やかでキャンプ感あふれるショーが展開し、大いに盛り上がって終幕となる
。ここでは、背後のデジタル映像は上演を構成するひとつの要素でしかないことが重要である。というのも、この作品におけるカファイの関心は、フェフアンがイーシュンでの経験──実際の儀礼への参加や言葉による情報──をどう上演に生かすか、いってみれば、どう身体化/身振り化するかにあったからだ。それは、トランス状態という儀礼におけるリアルな〈意識の改変〉状態を、〈上演の身体〉の現場=〈いま、ここ〉と接続する──再現するのではない──という試みである。
一方、本作でのツアーが可能になる前提として、世界各地にあるヴォーガーのコミュニティの存在を忘れることはできない。ちょっと声をかければ、すぐに人が集まってくるヴァーチャルな親密性をもっているので、世界中のどこでも公演が可能なのである。そうした、地域の文化的コミュニティとの接続可能性という、プラクティカルかつ上演の思想的にも重要な要素まで組み込まれたことにも注目しておきたい。
これをどう考えたらよいか。
アナログの殿堂バイロイト祝祭劇場にデジタル技術が〈到達〉するのを横目に、カファイは、そのような目先だけの〈改変〉ではなく、現実に存在するシャーマン的〈意識変容状態〉への諸技術とヴォーギングのようなクイア文化と関係が深いダンスの実践を接合させようとしている。そこではもはやデジタル技術は、その接合面を構成するひとつの要素でしかない。もちろんそれは、捩子ぴじんと霊的存在としての土方巽の3Dアバターや、フェフアンとヒンドゥーの神の3Dアバターを電気信号的に接合するためになくてはならない技術である。他方、霊的存在に憑依されるシャーマンたちはデジタル技術などなく意識変容状態=トランスに入ることができる。
この両者を並列すること。カファイはしたがって、霊的存在ではなく「テレプレゼンス(電気信号的存在)」と呼んでいる。そのとき、「テレプレゼンス」のためのデジタル技術は、単なる美学的拡張(=芸術の延命)用の必須アイテムではなく、人間の身体的実存と超越性と深くかかわる技術になりうる可能性さえ示唆されるのである。そこに、髙嶋が言うような「新たなダンスの地平」が開かれるかどうかはわからない。それでもわたしは、カファイの今後の活動を注視していきたいと思っている。