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ビエンナーレの醍醐味──第53回ヴェネツィア・ビエンナーレ・レビュー

鷲田めるろ

2009年06月15日号

 6月7日に開幕した第53回ヴェネツィア・ビエンナーレのレビューをお伝えします。

ビエンナーレに対するいくつかの関わり方

 第53回ヴェネツィア・ビエンナーレが始まった。いつ行くか、何を見るか、誰と会うか。美術関係者であっても何を目的とするかでビエンナーレとの関わり方は異なる。
 もし、あなたがジャーナリストだとしたら、いち早くビエンナーレを訪れ、枠組みの新しい点を詳しく伝えることが必要となるだろう。たとえば、前回まで「イタリア館」と呼ばれていたジャルディーニのメインの建物が、「展示館(Palazzo delle Esposizioni)」となり、アルセナーレ会場にイタリア館が設けられたこと。ライブラリーやカフェ、教育普及など、常時運営される施設が設けられたこと、などなど。もし、あなたが美術批評家だとしたら、ディレクターのダニエル・バーンバウムがキュレーションした企画展をじっくり見て、論じなければならない。現在のアーティストが過去のアーティストをどのように再発見しているかを示そうとしたバーンバウムの意図は達成されているのか。過去の作家の再発見に焦点を当てた2007年のドクメンタや、「レボリューション」をテーマとして1968年との関係を問うた2008年のシドニー・ビエンナーレとの違いは示されたのか。テーマである「世界を構築する」を複数の言語で表記し、エドゥアール・グリッサンを参照しながら、「多としての我々」を表象することを目指したバーンバウムは、展覧会をキュレーター自らの「作品」としてつくり上げるようなハラルド・ゼーマン(1999年、2001年)に対し、複数によるキュレーションを目指したフランチェスコ・ボナミ(2003年)型のキュレーションを、どのように引き継ぐのか。そして、バーンバウムが記者発表で示した「ペインタリー・センシビリティ(Painterly Sensibility)」という概念は、どのように機能するか。こうした問いに対する議論は、今日の美術を考えるうえで重要な意味を持つだろう。
 簡単に、ここで私の感想を述べれば、アーティストの主体性を示そうとするならば、アーティストによって過去のアーティストを選ばせるなどの、枠組みの変更とそのわかりやすい提示が必要であったと思われる。ヴォルフガング・ティルマンスの色面の写真はたいへん印象に残る作品であったが、リジア・パペの色面作品と同じ展示室で併置されてしまうとキュレーターの専政を感じてしまう。一方で、全体を分割せずに見せた展示には、ゼーマンの展示のような迫力はないものの、見る心地よさがあった。これは、あまりにコンセプチュアルに偏りすぎたり、ヴィデオ作品ばかりみせたりすることなく、視覚的な要素を重視する「ペインタリー・センシビリティ」というコンセプトが機能した結果だと思われる。この評価については、今後の議論に期待したい。
 私は、キュレーターとしてビエンナーレを見た。もちろん、キュレーターであれ、ジャーナリストや美術批評家としての視点も必要だ。オランダ館のフィオナ・タンの出来映えの良さを評価したり、ヤン・ファーブルの力作を賞賛したりすることも大切なことだろう。だが、キュレーターにとってのもっとも具体的な課題は、将来一緒に仕事をしたいと思う作家を発見し、実際に会うことである。運と勘に大きく左右される作業だが、今回、まずまずの成果だったと満足している。そのなかから二点、紹介したい。

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