フォーカス
医学と芸術:生命と愛の未来を探る──ダ・ヴィンチ、応挙、デミアン・ハースト(森美術館)
柳澤田実(南山大学人文学部准教授)
2010年02月15日号
対象美術館
解剖図譜以外には、人体模型や医療器具、そして西欧的な身体観を相対化するチベット、日本、中国の解剖図・医学書・骸骨図などの数々が居並ぶ。それらを経たのち最終展示室にかけては、老い、障害、遺伝子工学、脳科学をテーマにした20世紀以降の現代美術が、19世紀以前の脳科学や遺伝学の資料と共に展示されている。どの作品も現代の医療技術や医学によって可能になる現実、あるいはその前提となっている疎外的な人間観・生命観をあからさまに告発している。スキムミルクで作られた赤ん坊の彫刻(マーク・クイン「フリー」)[fig5]、遺伝子工学によって創られた蛍光色に発光するウサギ(エドワルド・カッツ「GFPバニー」)[fig6]、ゲームボーイに興じる老化した子供(パトリシア・ピッチニーニ「ゲーム・ボーイズ・アドヴァンス」)[fig7]などなど。それぞれの作品はいかにも論争喚起的であるが、むしろここで問題にしたいのは、これらの現代美術の作品が例外なく人々が日常的に避けて通ろうとする現実を誇張し、告発しているという点である。こうしたネガティヴな現実を告発したいという欲望に支えられた作品には、医療や看護が日々実現している治療行為のポジティヴなリアリティが見出されない。私は素朴にその点に疑問を感じた。
今回の展覧会の展示物の多く、そしておそらくこの展覧会の企画自体が、医学研究に多額の支援を行っている英国のウェルカム財団のコレクションに負っている。このウェルカム財団のHPには、科学と芸術に関して以下のような説明がある。
科学と芸術はある時代に分裂し、一方の科学のみが真理を証明するとともに、私たちの生に関する公的な説明を受け持つようになった。これに対して芸術はせいぜい真理を人々に感じさせるものに過ぎず、今日では「アウトサイダー」のステイタスに甘んじている。しかし、これらの一見正反対に見える科学と芸術は、いずれも観察と総合に基づいているのであり、これらがともに働くことは極めて生産的なのである★1。
このような考えに基づき独自の芸術支援やコレクションを行なっているウェルカム財団が、極めて貴重な存在であるのは間違いがない。私は彼らの主張に大いに賛同する。生態学的人類学者のTimothy Ingoldも述べているように、芸術artとは本来単なる主観的経験のリプレゼンテーションに尽きるものではなく、科学と同様に経験世界に探りを入れ、その意味を発見するための手段だったはずだ★2。先に挙げたレオナルドの素描が教えるのも、芸術が、形態という観点から世界を分析・実証し得る手段だということにほかならない★3。
しかし、今回の展覧会に並べられた20世紀以降のアート作品を観る限り、それらが捉えているのが一面的な現実に過ぎないことに少々首を傾げたくなるのも事実である。これらの作品には、「生きたい」と切実に願っている人々も、また生きるために案出された医学によって実際に生きられる可能性が広がるという現場のリアリティも不在に見える。今回たまたまそのような傾向の作品が選ばれたのかどうかは分からない。しかし、「アート」というフィルターを通して医学を観た場合に、直視を避けたいと思わせつつ同時に好奇心をそそる現実を誇張し、「本当は見たいのだろう」と言わんばかりに形象化して見せる作品ばかりになるという状況には、今日の「アート」を支えるイデオロギー的制約を感じずにはいられなかった。医学・医療が包摂する極めて複雑かつ豊饒な現実を汲みつくす、そのような作品を待望したい。