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バーゼルの伝統──エルンスト・バイエラー(1921-2010)、ヒルディ・バイエラー(1922-2008)に捧ぐ

木村浩之

2010年05月01日号

 エルンスト・バイエラーが死んだ。
 彼の芸術観を、他のスイスの個人コレクションとの比較などを通じながら考察する。


エルンスト・バイエラー、第25回アート・バーゼルにて(1994年)
Photo: Kurt Wyss, Basel

“Who else have had so many Masterpices in his/her hand?”
「彼ほど名作を多く手にした人はいないだろう」
アルフレッド・パックモン(パリ、ポンピドゥーセンター・ディレクター)

チューリヒの成金コレクション

 スイス第2の都市バーゼルと、バーゼルから100キロと離れていないスイス最大の都市チューリヒは(東京と大阪のように?)犬猿の仲であり、バーゼル人に(意地悪く)言わせると、チューリヒは金はあるが芸術文化がないとされている。もちろん反例はいくらでもあるのだが、確かに美術館のレベルだけでなく、個人コレクションレベルにおいても量・質においてもバーゼルの方が秀でていると思える節はある。
 たとえばチューリヒの最も有名な個人コレクションにも、ある種のチューリヒらしさがにじみ出ている。E・G・ビュールレ財団コレクションと呼ばれるチューリヒ出身のビュールレ家のコレクションは、長らく一般公開されていながらも、あまり表舞台に出ることはなかった。決して所蔵作品が悪いわけではない。どのバーゼルの個人コレクションもこれに肩を並べるレベルのものはないだろう。印象派の名作ばかり180点以上を集めたコレクションは、おそらく個人コレクションという範疇のなかでは時価総額世界最大級のものであることは間違いない。にも関わらず、それがあまり語られることがなかった理由は、このコレクション形成に投資された資金の由来による。
 武器商人だったエミール・ビュールレ(1890-1956)は、中立国スイスの立場を利用して、ドイツ・ナチスなどに武器を売ることにより一代にして巨万の富を築きあげ、印象派の作品とあれば手段を厭わず何でも世界中から買い漁ったのだった。そういった由来により、保守的なスイス人は、ビュールレ家とも、そしてその夢のような大コレクションとも一切の関わりを避けてきたのだった。
 2008年に、このビュールレ・コレクションからセザンヌ、モネ、ゴッホ、ドガの作品4点(合計180億円相当と発表されている)が展示室から盗難にあうものの、ゴッホとモネの2点は近くに駐車されていた盗難車内から数日後に無傷で発見されるという事件があった。盗難作品の返還(?)の不可思議もさることながら、その返還されたモネ作品が、1941年にビュールレが非合法な手段で入手したのではないかと容疑がかけられているいわく付きの作品であったことも話題となった。
 そんな事件でついに被害者として脚光を浴びたものの、それで戦争犯罪に近い過去を帳消しに出来たとは思えない。しかしながらコレクション全体が公立であるチューリヒ市立美術館(クンストハウス)に貸与されることが決まっており、その常設展示空間ための大々的な増築の計画まであるのだから、「和解」したということになるのだろう(ちなみに、昨年のコンペの結果ロンドンの建築家デイヴィッド・チッパーフィールド案が選ばれている)。
 このコレクションの内容については、確かに粒ぞろいの迫力に満ち満ちた作品の集まりであるが、その一方で、連続性のない、焦点の定まらない集合体であると言われることが多い。それゆえに、故ビュールレ氏のコレクターとしての資質を疑う意見は後を絶たない。超一級品を揃えるだけの資金力がありながら、一貫したテイストがあるわけではなく、エスタブリッシュされたものに追従する成金的な振る舞いは、バーゼル人の常套文句に言い換えると、「ああ、いかにもチューリヒ」ということになるだろう。
 特殊な例と思れるかもしれないが、こういった成金商人の台頭こそが、金融・商業のまちチューリヒらしさの象徴として考えられている。特に人文・芸術のまちとしての大きな誇りを感じているバーゼル人からは。

スイスとアートと戦争

 しかしスイスにおいては、「ワケあり」な作品の流通、あるいは芸術作品売買を通したマネーローンダリング(資金洗浄)に関しては、法改正の行なわれた2006年までそれを取り締まる法が他国に比べ甘く、スイス中で幅広く行なわれていた可能性があり、必ずしもチューリヒに限ったことではない。むしろそれが銀行機密法(こちらも現在法改正を迫られている)と低税金(タックスヘイブン)とともにスイスのスイスたる所以と世界中から思われているといったほうが正しいかもしれない。
 バーゼル市立美術館にも、(間接的に)ナチス・ドイツと関わりのある作品がある。
 ナチス・ドイツによるあの悪名高い「退廃芸術」破壊・焼却デモンストレーションの仮面の裏側で、「ゴミのような」作品をスイス・ルツェルンへと密かに運び高額オークションを行なって換金していたことはあまりにも有名だが、バーゼル市立美術館も、その1939年のオークションや、またベルリンに出向いての「直接」購入を通じて入手した、主にドイツ表現主義の絵画作品合計21作品を所蔵している。
 美術館門外不出となっているオスカー・ココシュカの《風の花嫁》(1913)や、パウル・クレー、フランツ・マルク、エミール・ノルデなどの一連のドイツ近代絵画作品群は、1939年当時、すでに制作から20年も経過している作品が多かったとはいえ、まだまだ様式としては若い部類に入るものばかりだった。それこそがドイツ・ゲルマンらしさに欠けるというナチスの非難の言いがかりであったのだから。
 マネーローンダリング向けの作品が、一般的に価値変動の少ない、つまり安定した再換金が保障された作品だとすると、ここで選ばれた救われた作品群は、現在でこそマスターピースに数えられているが、当時はまったくそういったカテゴリーのものではなかったと言えるだろう。むしろ、(戦争にて1914年に戦死しているマルクの例外を除いて)同時代の活動中の、あるいは逃避中の作家の作品が中心であり、正反対というべき性質の作品群であった。
 作品番号1750前後の連番のそれら一連の作品群購入をめぐっては、そのオークション開催の是非と同様、ナチスへの間接的な協力である一方で、芸術作品を破壊から救った行為でもあるとされる点で両義的な評価がなされている。それでも明らかにナチス戦線への協力である武器商売で肥やされた資金を元に作品を購入することとは、おおきな隔たりがあると考えて良いだろう。

バーゼルと個人コレクションの伝統

 バーゼルの上流階級では自身のコレクションを美術館に寄贈することが、誇りあるバーゼル人であり続けるための「伝統」なのだという。
 個人コレクションとはそもそもMOMAなどの大インスティテューションのように、作品を溜め込み美術史的見取り図を形成することではなく、見ることを本来の目的としている。しかしコレクションが大きくなってくるとすべてを展示したままにすることはできず、どうしても倉庫に眠ったままになってしまう作品が多くなる。そのジレンマを解決すべく展示と倉庫の中間的施設「シャウラーガー」という新しいコンセプトで2003年にオープンした(ヘルツォーク&ド・ムーロン設計)のが、バーゼルを代表する個人コレクションであるエマニュエル・ホフマン・コレクションである。ここにも典型的なように、バーゼルにおいてはコレクションとは溜めることではなく、作品に開かれた場所を与えることを意味する。
 ヨーロッパ最初のパブリックコレクションと言われるバーゼル市立美術館のコレクションも、アマーバッハというバーゼルの有力印刷業者の個人コレクションを大学が引き受けた(1661年)ことにより始まっている。ハンス・ホルバインなどを含むそのコレクションは現在もバーゼル市立美術館のハイライトの一部をなしており、エラスムスなどとも交友があったこのアマーバッハという人文主義者の名前を後世に伝えることとなった。
 この事実こそがその伝統を支えているに違いない。
バーゼルの美術館の作品脇に添えられているプレートには、3言語訳での作品名の下に、いつ誰からの寄贈であるかが小さく控えめだが詳しく記されている。このことにもそれがよく表われていよう。

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