フォーカス
バーゼルの伝統──エルンスト・バイエラー(1921-2010)、ヒルディ・バイエラー(1922-2008)に捧ぐ
木村浩之
2010年05月01日号
バイエラーの選択
弱冠24歳のエルンスト・バイエラーが、彼の雇い主の急死により突然バーゼル旧市街にあったエッチングなどを扱う古美術商をまるごと買い取ることになったのは、ちょうど第二次世界大戦が終わった1945年のことであった。
買い取るために借金までしたという、その駆け出しから半世紀後、パリ・ポンピドゥーセンターなどで知られるレンゾ・ピアノの設計による「バイエラー財団美術館」をバーゼル郊外に開館するまでに至る。76歳の時である。
その間に、300以上の展覧会を行ない、16,000点以上の作品をコレクターや美術館に売買し続けただけでなく、ピカソに「アトリエ内から欲しい作品を選んで良い」という前代未聞のチャンスを与えられるなど(結局26作品を購入したという)、さまざまな伝説的エピソードもつくってきた。近現代美術に限ったアートフェアとして質・量共に世界一の「アート・バーゼル」を共同設立(1970年)し、運営してきた経営的センスをも持った者としてもよく知られている。作品だけでなく、作家との交流やコレクター・美術館と密接な関わりを保ち続け、戦後美術界とともに歩んできた。
バイエラーにとっては、価値のまだ定まらない作家・作品・様式のものの価値を自らの目で見出し、作家とともにその発展の渦に巻き込まれていくことこそがアートと関わりをもつことの醍醐味であったのだろう。
「うちで作品を買ってくれる顧客のおかげでわれわれは生活ができているが、われわれに富をもたらしてくれるのは何も買わずに出て行く人たちの方なのである」と冗談交じりに述べている通り、ビジネスとしての難しさの一方で、自身の眼のみを信頼する勇気と才気にあふれていた。
自分の目で選んだ同時代作品を購入することは、それを通して作家、そして文化全体をサポートすることと同義だ。つまり究極には、バイエラーにとってコレクションとは目的ではなく結果でしかなかったと言い換えても良いだろう。しかし、その結果とは、彼そのものである。美術館に展示されている作品数は決して多くないが、その厳選された作品には各々スペシフィックな環境が与えられている。その展示は彼の個人史のようにも思えるくらいだ。
アマーバッハに続く無数の寄贈者たちが作品を差し出したように、あるいはエマニュエル・ホフマンが作品に開かれた場所を与えたようには、バイエラーは作品をパブリック・ドメインへと還元することはしなかった。しかし逆に、バイエラーは一個人がどれだけ日常生活的環境のなかでアートと親密な関係を築けるのかを示すことで、より多くの、またより幅広い人々へ、アートとは何なのかを考える機会を与えている。
彼は自分自身を語るとき、1人称はつねに複数形(ドイツ語wir)であったという。その「われわれ」とは、画商としての独立の頃からすでに彼の人生の伴侶として彼のすべての活動を支え、ともに歩んできた夫人ヒルディ・バイエラーのことを指していた。彼にとって、自分自身とは彼と彼女との共同体だったのだ。そしてその共同体にはつねにアートが溢れていた。
エルンスト・バイエラーが死んだのは、ヒルディが他界してから1年半ほどしか経ていない2010年2月25日であった。
その日の聖句は、アブラハムがイサクの嫁を故郷に探すために使者を使わすくだりである。
「わたしの仕えている主は、み使をおまえと一緒につかわして、おまえの旅にさいわいを与えられるであろう」
(創世記 24:40)
バーゼルに生まれ、バーゼルに育てられ、そしてバーゼルを育てたエルンスト・バイエラーの旅立ちにふさわしい聖句であろう。
安らかな眠りをお祈りいたします。