2019年07月15日号
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フォーカス

すべては海続き──瀬戸内国際芸術祭

白坂由里(美術ライター)

2010年08月15日号

 暑さは堪えるが、アートの船旅は気持ちがいい。直島をはじめ、豊島、女木島、男木島、小豆島、大島、犬島といった瀬戸内海の7つの島と高松市街地を舞台に、国内外75組のアーティストが出品した「瀬戸内国際芸術祭」が開催中だ。人口が減少し、高齢化が進む島々に活力を取り戻そうとする取り組みである。

 「あれー? 高松近いねぇ」。女木島までもうすぐという船のなかで、子どもが振り返って言った。高松のビルまで歩いていけそうに見える。高松から船で約20分。小豆島まで最長でも約60分。しかしおそらく近いところほど知らない私たち。
 連日の仕事で東京を離れるタイミングを失い、8月1日、維新派の犬島公演楽日にようやく出かけた。高松に1泊して女木島、男木島へ行き、9月に出直すことにして帰京。直島と犬島はこれまでにも訪れ、直島の李禹煥美術館開館に合わせて6月に豊島もリサーチしているとはいえ、この芸術祭の網羅的なレポートには少し力不足かもしれない。とはいえ、例えば男木島だけ見ても充分に楽しめよう。多くの作品を見比べても、ひとつの作品をじっくり見ても、それぞれの旅のかたちが可能な芸術祭でもあるのだ。

犬島の精錬所を舞台とした維新派公演

 高松港から犬島へ、維新派公演『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』へ向かう船上。寄せては返す波を見ながら、波の上を歩いて向こうの島に行けるんじゃないかと、飛び石を渡るような感覚を覚えた。島国・日本の縮図を見る旅ではなく、陸続きならぬ海続きの地球。「点」から「線」、そして「面」へ。頭のなかの地図が変わる。
 現場に数カ月滞在し、仮設劇場を建てて上演する維新派。本公演は、『〈彼〉と旅をする20世紀三部作』の最終章にあたり、『nostalgia』の南米、『呼吸機械』の東欧に続いて、アジアが舞台だ。また、8年前に『カンカラ』を上演した同じ精錬所での公演となる。8年前「島と島が近くてなんだか泳いで渡れそうだ」と思ったという主宰の松本雄吉氏。日本から東南アジアの多島海へと連なる「海の道」は、上から見るとトカゲのような形状をしている、丸太4,000本を使った、黒田武志による舞台美術にも表現されていた。長いスロープを登って客席の最上階から自分の席へと降りていく。巨大インスタレーションともいうべき舞台は、役者が現われるとまた空気が変わる。風になびくワンピースの娘たちや丈の短いズボンの青年たちの動き、声が、波のように少しずつずれながら時折一体化する。
 ジュール・シュペルヴィエルの詩から付けたというタイトルは、台湾で牛が背のびをしたとき、向こうではなにが起きているかといった「同時性」を表わす。奥行きと段差のある舞台で、台湾では、フィリピンでは、ミンダナオでは、なにがあったかという「点」を結ぶことによって、海の道という「線」が現われ、アジア百年の歴史という「面」が立体的に浮かび上がる。かつて日本から海を渡った移民や兵士など、個々人にスポットが当てられる。調査にも労を費やしたと思われる、歴史に鮮明に刻まれることのない市井の人々。それを演じる現代の役者一人ひとり。山高帽とトランクがトレードマークの4メートルの動く巨大人形である《彼》の登場シーンにはやはり笑ってしまうが、哀しげでもある。《彼》は漂流する人々を複合した存在であり、変動する20世紀の目撃者でもある。

 内橋和久による島で採取した音と生の舞台に合わせた演奏と周囲の自然音、夕暮れから夜の闇までの変化に合わせた照明とともに、虚実入り混じる世界。明確な物語はないが、私たちはすでにその世界に「いる」ことで、遠い場所や歴史とのつながりを感じる(戦争はまだ終わっていないということも)。また、各パートが自律しながらかかわり合い、集団でしか超えられないことに挑戦する、それこそが維新派のスタイルだった。


維新派『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』奥に、精錬所の朽ちかけの煙突が立つ
撮影=井上嘉和


広場には屋台村が連なり、かつての犬島の活気を思わせる

維新派『台湾の、灰色の牛が背のびをするとき』(埼玉公演)

会期:2010年12月2日(木)〜5日(日)
会場:彩の国さいたま芸術劇場大ホール

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