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チャイナ・コネクション

木村浩之

2010年09月01日号

 破竹の勢いで成長を続ける、中国の現代アートシーン。それを語るうえで、いま欠かせない存在となっているのが、実はスイス人であることをご存知だろうか。中国とスイス、この不思議な関係を紐解いてみたい。

コレクター ウリ・シグ

 この文脈で最初に挙げなくてはならないのはウリ・シグ(Uli Sigg, 1946年スイス・ルツェルン生まれ)である。彼の中国とのつながりは、1979年、シンドラーエレベーター社(本社スイス)のアジア代表として北京へ赴任したときに始まる。彼の仕事はアートとは関係なかったが、気を許せるようになった友人らがアーティストだったことから、次第にアート界との交友を深めていった。作品購入を始めたのは1985年頃だが、現在では200アーティストの2,000点にものぼる作品を収集しているといわれている。個人コレクションとしてはもちろん、各国の美術館コレクションと比較しても、世界最大の中国現代アートコレクションということになろう。
 シグはまた、中国コンテンポラリー・アート・アワード(Chinese Contemporary Art Awards、1997年〜)の設立者でもある。設立年の1997年は、彼がシンドラー社退職後に任命された駐中国・北朝鮮・モンゴルのスイス大使を退任した直後にあたる。いわば彼にとっての中国滞在第三期の冒頭である。この賞の審査員として彼に協力したのは、アイ・ウェイウェイと、ハラルド・ゼーマン(後述)、ホウ・ハンルー(後述)らであった。さらには、北京オリンピックスタジアム設計において、スイス人建築家ヘルツォーグ&ド・ムーロンにアイ・ウェイウェイを引き合わせ、コラボレーションへと導いたのもシグであった。
 2005年にはシグのコレクション展がベルン市立美術館(スイス・ベルン)を皮切りに、ハンブルガーバーンホフ美術館(ベルリン)、UCバークレー美術館(バークレー)などを巡回した。「マージャン(麻將)」という意味深なタイトルをつけられたこの展覧会は、西洋においてまとまったかたちで現代中国アートを紹介した初めての展覧会として、各地にさまざまな影響を残した。
 例えば、同展を企画したベルン美術館では2006年より「中国の窓」と題された中国関連の展覧会シリーズが組まれるようになった。また同年、ベルンの現代美術財団(Stiftung GegenwART)がアイ・ウェイウェイの協力の下、スイス人若手アーティストを北京における半年間のアーティスト・イン・レジデンスに送るためのサポートを始めている。ちなみに、この財団のパトロンであり、このレジデンスプロジェクトの発起人は、『Forbes』誌資産ランキングで上位に入るハンスユルグ・ヴィース(Hansjörg Wyss、1935年スイス・ベルン生まれ、シンセス社会長[医療機器、スイス本社])である。彼は一切プレスコンフェレンスを行なわず、また一切インタビューも受け付けないというポリシーのため、詳しいことは分からないが、彼がサポートに乗り出したのも、ベルンにて多大な反響のあったシグの展覧会とシグ・コネクションがきっかけとなっていたことは間違いないだろう。


ベルン市立美術館でのシグ・コレクション展(2005年)ポスター。「できるだけ幅広いコレクションとなるよう心がけた」と本人が言うだけあって、中国現代アートの見取り図的な作品群の展示であった。しかしながらシグ本人をモチーフにした作品も複数含まれる(アイ・ウェイウェイなど)ことなどから、ディーラーを介在させず作家と個人的なつながりがあったことを強く印象付けるものであった。 企画したのはベルン美術館ディレクター、マティアス・フレーナー(Matthias Frehner 1955年、スイス・ヴィンタートゥール生まれ)。現在世田谷美術館でコレクション展が開催中のヴィンタートゥールの美術館勤務の後、2002年より現職で、現在も「中国の窓」シリーズ展の一環として第二のシグ・コレクション展「Big Draft – Shanghai」展を企画している(2010年11月より)
© Kunstmuseum Bern

ギャラリスト(1) ロレンツ・ヘルブリング

 シグが独自にコレクションを始めたのは、中国現代アートの存在が認知され、さらにそれを収集するという流れが生まれるよりも前である。それと同様、中国本土でギャラリーという概念が流通する前にアートギャラリーを開設したのがロレンツ・ヘルブリング(Lorenz Helbling スイス・ブルック生まれ)であった。1980年代半ばに学生として訪れたことのある上海へ渡り、ギャラリーを始めたのは1995年のことである。偶然にもシグがスイス大使として中国に赴任したのと同じ年だ。最初は自前のスペースがなく、ポートマン・リッツ・カールトンホテル内の廊下を借りての営業であった。思いつく限り方々に送りまくったという案内状に対し思いがけず返事を送ってきたのが、送付先リストの中でいちばんの有名キュレーター、ハラルド・ゼーマンその人であった。異郷で奮闘する若者への励ましの言葉が添えられていたという。ホテル内での売り上げはほとんど皆無に近かったらしい。そのような出だしではあったが、彼のShanghART Gallery(香格纳画廊)が上海の現代アートのメッカとして知られる「M50(莫干山路50号)」の中心的存在として、合計1,200平米もの複数のスペースを有するギャラリーとなるのに、10年もかからなかった。2000年には、厳しいセレクションを通過して「アート・バーゼル」に初出展。これにより、香港を含む中国のギャラリーとしては初めて、第一級のギャラリーとしての国際的認識を獲得したといえる(ちなみに2010年の「アート・バーゼル」には中国から3つのギャラリーが参加。日本系ギャラリー数の5に年々近くなっている。ベルリンにもスペースをもつオランダ人Waling Boersと中国人Pi Li(皮力)の共同経営によるBoers-Li Gallery(北京)と、2008年横浜トリエンナーレの共同キュレーターであったHu Fang(胡昉)のディレクションによるVitamin Creative Space(広州市)、およびヘルブリングのShanghART Galleryである)。




現在上海に3スペース、北京に1スペースを持つShanghART。M50内の2つの空間は、1930年代の産業建物のそれぞれのキャラクターをうまく残したタイプの異なる空間でる。展示作品以前に、(空の)展示空間からしてすでに、M50内に数ある他のギャラリーとは一線を画すクオリティーを保っている。
上:©木村浩之、下:© ShanghART

オーガナイザー ロレンツォ・ルドルフ

 ちょうどロレンツ・ヘルブリングが「アート・バーゼル」に初出展を果たす2000年までの10年間、「アート・バーゼル」のディレクターを勤めていたのが、ロレンツォ・ルドルフ(Lorenzo Rudolf、1959年、スイス・ベルン生まれ)である。彼の後継者であるサム・ケラーの時代が「アート・バーゼル」の黄金時代とされるが、バーゼルの姉妹フェア「アート・バーゼル・マイアミ」設立の準備に携わるなど、アートフェアとしてのバーゼルのステイタス確立に多大な貢献をしたのは、ほかでもないルドルフである。
 ルドルフはバーゼルの後、フランクフルト・ブックフェアなどメジャーフェアのディレクターを複数務め、2007年には上海に現代アートフェアShContemporaryを立ち上げる。中国国内にはすでに複数のアートフェアが林立していたなかで、あえての設立であった。上海にはShanghai Biennale(1994年〜)、Shanghai Art Fair(1997年〜)、ART Shanghai(2003年〜)、北京にもCIGE(2004年〜)、Art Beijing(2006年〜)など、まさにアートバブルに連なるような状況であり、大規模のものでは1,000を超える「出展ギャラリー」の中に、小物みやげもの屋などが混じることもあるほどの無法地帯になりつつあるという。そうしたなかで、現代アートに特化した質の高いギャラリーのみが出展を許されるフェアとして、一気にトップの座に躍り出たのがShContemporaryであった。参加ギャラリーは、アート・バーゼルに参加している欧米のギャラリーが半数程度を占め、中国のギャラリーも厳しい選考の末に選ばれたものに限定されるという。さらに、さまざまなテーマ展示やディスカッションなどのイベントを用意して、純商業空間である他のフェアとは差別化を図っている。その取り組みのひとつである「Discovering Contemporary 部門」では、森美術館のチーフキュレーターの片岡真実が共同キュレーターに選ばれている。バーゼル・ヴォルタフェアの共同キューレーションなどを含む国際的な活躍がめざましい片岡を選ぶという姿勢からも、このフェアが目指すところは国際レベルのそれであるということが明確に表われている。ちなみに、上海万博期間中に開催される今年のフェアShContemporary 10のディスカッション・イベントの企画は、後述の中国人キュレーターのホウ・ハンルーであり、非商業美術館のディレクターらで占められるパネリストに交じってウリ・シグが名を連ねている。

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