フォーカス

チャイナ・コネクション

木村浩之

2010年09月01日号

キュレーター(1) ハラルド・ゼーマン

 キュレーターとして中国現代美術の「発見」に最大の貢献をしたのは間違いなくハラルド・ゼーマン(Harald Szeemann、1933年、スイス・ベルン生まれ、2005年、スイス・テンガ没)である。いまさら紹介するまでもないが、彼はドクメンタとベニス・ビエンナーレのディレクターに唯一複数回指名された稀代のキュレーターであり、キュレーションとは何たるかを(再)定義したと言ってもいいくらいの大物である。そのゼーマンが1999年のベニス・ビエンナーレに招待したアーティストの100人中19人が中国人アーティストであったことは特筆に値するだろう。西欧美術界で最大の影響力があったゼーマンが1999年に示した中国現代アートへの関心が、その後の世界規模の中国アート・ブームの発端となったと言っても差し支えない。その背景には、先述のシグとの交流および彼の中国コンテンポラリー・アート・アワードの審査(第1回目から死の直前まで続けた)や、後にヘルブリングとも結ぶ友好関係が大きく影響していると見て間違いないだろう。


ゼーマンのキュレーターとしての業績を集めた「作品集」。ゼーマン本人も編集に関わっていたこの800ページにも渡る資料集のような本が出版されたのは、彼の死後であった。前後の論理関係を示す単語を羅列しただけという乱暴なタイトル「with by through beacuse towards despite」は、時系列に並べられた資料からひとつのナラティブなGeschichte(ストーリー=歴史)を紡ぎ出すのは観者・読者の作業である、というゼーマンから突きつけられたメッセージのようにも感じられるものだ。スイス人マリオ・ボッタ設計によるワタリウムのオープニング展が「たまたまスイスというつながりで」ゼーマンに依頼されてできた企画だったということをこの本は伝えている。巻末にささやかながら中国語の抄訳がついている
写真:©木村浩之

キュレーター(2) ハンス・ウルリッヒ・オブリスト

 ハンス・ウルリッヒ・オブリスト(Hans-Ulrich Obrist, 1968年、スイス・ヴァインフェルデン生まれ)は、現在ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーの共同ディレクターとして知られている人物である。1989年の天安門事件勃発によりパリには中国から渡ってきたアーティストが多く集まっていた。彼はその時期パリに滞在していたことから、中国人アートストとの交流が多かった。多くのアーティストに混じって出会ったのが中国人キュレーターのホウ・ハンルー(Hou Hanru 侯瀚如、1963年生まれ、現San Francisco Art Institute チーフキュレーター)であり、日本、韓国、タイなど中国以外のアジアを知っていたオブリストと、アジア都市の成長についての意見を多く交わしたのだという。そしてその延長線として、オブリストはホウと共同で展覧会「シティーズ・オン・ザ・ムーヴ Cities On the Move」をキュレートし、1997年ウイーンを皮切りに世界中を巡回させる。100人以上のアジア出身のアーティストを招き、アジアの現代芸術と建築・都市発展に関しての見取り図を示した。
 その後、サーペンタインに抜擢されてからもオブリストは、もめていたロンドンの発電所跡地の再利用計画が確定するまでの仮利用イベントとして2006年、中国現代美術・建築展「チャイナ・パワーステーション」を企画している。この展覧会はロンドンの後、第2回(2007年)にオスロ、そして第3回(2008年)にルクセンブルグなどへと発展しているが、これだけの企画をすることができた背景には、すでにパリ時代から交流のあったというシグやヘルブリングを通して入ってきていた現地からの生の情報の蓄積があった。

ギャラリスト(2) ウルス・マイレ

 前述のように中国現代アートのコレクターのはしりであったシグは、しかしひとりで中国を独占しようとしていたのではなく、現地情報を提供し、この分野に携わる人脈を広げ、人材も育てていた。「当初、作品を買うには、アーティストに自らアポをとり、アトリエに赴くしか方法がなかった」とギャラリーの不在を嘆いていたシグにより中国・北京へ呼び寄せられたひとりが、シグと同郷のウルス・マイレ(Urs Meile 1954 年、スイス・ルツェルン生まれ)である。1990年頃にシグと知り合っていたマイレは、1992年にルツェルンにギャラリーをオープンしてから間もなくして、北京とルツェルンを往復する生活を始めている。これにより、自身のギャラリーにおける展覧会の半数以上が中国アート関係になったという。マイレは、中国へ関心を持ち始めたきっかけを聞かれたインタビューで「ウリ・シグという名前がすべての答えになる」と述べている。しかし、マイレのビジネスを最終的に成功へと導いたのは、前出のゼーマンのキュレーションによる1999年のベニス・ビエンナーレであった。このビエンナーレで中国現代アートが一躍世界の脚光を浴びたものの、それを扱うギャラリーがほぼ皆無であったため、マイレの元に「突然問い合わせがひっきりなしに来るようになった」。この時点ですでに、マイレはアイ・ウェイウェイとの契約を締結していた。アイのヨーロッパでの初の個展が開かれたのももちろん彼のルツェルンのスペースにおいてであった(初日に完売という噂が当時バーゼルにも伝わってきていた)。もちろん、2007年のカッセル・ドクメンタにアイを招いたのもマイレである。現在は北京に、アイと共同で運営するギャラリースペース(China Art Archives & Warehouse, Beijing)に加え、独自のスペースも所有している。






アイ・ウェイウェイ設計で、彼自身がスペースをもち運営している「草場地芸術区」内に北京のギャラリー・ウルス・マイレはある。北京でのアート地区としてよく知られる「大山子798芸術区」からさほど遠くないところに位置し、三潴画廊(ミズマアートギャラリー)、BOERS-LIやShanghARTなどもここにある。しかしメインのギャラリーはルツェルンにあり、そこで行なわれたアイ・ウェイウェイ展(2004・2007年)に合わせて作成されたカタログ・シリーズは、しばらくの間唯一手に入るアイ・ウェイウェイのまとまった作品集であった。出版はスイス・リンジェー(Ringier)社で、シグが副社長を務める会社である。ベルン美術館での第二のシグ・コレクション展に重なる2010年12月に3度目のアイ・ウェイウェイ展がルツェルンのスペースにて開催される予定となっている。
上:©木村浩之、中・下:Courtesy Galerie Urs Meile, Beijing-Lucerne

スイス・コネクション、そして

 もちろん、中国現代アートと早くから関係のあった西洋人はここに挙げた一握りのスイス人たちだけではない。例えば北京にはマイレのギャラリー以外にもイタリア系、イギリス系、オーストラリア系、韓国系などの外国ギャラリーが存在した。その中でスイス系が際立って重要な役割を果たしてきた理由は定かではないが、いくらアート界の「世界は狭い」とはいえ、度々同じ名前が登場することはまれである。このことからもわかるように、スイスと中国の間で築かれた人間関係のクロスコネクションぶりは特筆すべきものがあろう。
 スイス人は、中世の頃から傭兵としてヨーロッパ中に拡散していた。そのスイス人同士による信頼コネクションが将来的にスイスの銀行業の礎となっていったという。
「スイス人同士による信頼コネクション」が現在においても健在なことを中国現代アート界においてスイス人は示したといえるだろうか。
 かといって、スイス人たちは中国現代アートを独占するわけでも、アーティストたちをコントロールするわけでもない。ただ端然と、寡黙に、中国現代アートの土台をつくり、世界とを結びつける役目を担ってきた。ここにいかにもスイス人らしい節度を感じる。そうして現在まさに世界に羽ばたいて、過熱気味とさえいえる中国現代アートブームを、彼らはどう見ているのだろうか。

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