フォーカス
「ドガ展」──躍動に注がれた情熱、省略される肉体
小澤京子
2010年11月15日号
衣紋の習作群に顕著だった「省略された頭部」というテーマは、数点の肖像画にも反復されているように思われる。すなわち、ぼかされたり、極端な薄塗りだったり、何らかの状況により、完全な可視性が遮られたりしている顔の数々である。例えば、《女性の肖像》(同38)では、ヴェールを示す黒い半透明の色斑で、顔の半分が覆われている。《マネとマネ夫人像》(同29)では、画面右端に座るマネ夫人の横顔の、ちょうど造作の明らかになる部分が断ち切られている。手荒に継ぎ足された汚れ色(地塗のみが施された状態)のカンヴァスが、「顔の喪失」という異常な事態を決定づけ、強調している。
逃げ去りつつある、あるいは未だ描かれざる顔の系譜も、ドガの肖像画には存在する。《立っている二人の男》(同25)では、向かって左に立つ男の鼻から口髭にかけてが、海綿か何かでこすったかのように暈されている(展覧会カタログの作品解説によれば、この「消去」は意図的なものである)。そして右側の男に至っては、身体は半透明に透け、顔には濁った白色が厚ぼったく塗られているのみだ。この2人の幽霊じみた出で立ちは、「未完成」という事情に依るところが多いが、不穏な空気に包まれた「謎」を、観る者に差し出しているようでもある。曖昧な顔という点では、《群像》(同30)も特筆に値する作品であろう。内側を向いて立つ3人の人物たちの眼差しは互いに交わらず、それどころか左端の男性と右側の女性に至っては、眼の所在すら不鮮明である。右向きの横顔を見せる中央の女性の顔は、煤色の陰影の内に半ば沈んでいる。
しかし、ドガは顔の描写を蔑ろにしていたというわけではない。マネの肖像のために描かれた素描(同28)や《画家の従姉妹の肖像》(同23)を見れば、この画家がバルザック流の観相術──人物の性格を顔貌において描写する術──を身につけていたこともわかるだろう。
顔の不在、あるいは不在とは言わぬまでも、その存在の希薄さは、踊り子たちを描いた一連の――ドガの作品として真っ先に想起されるであろう――作品群にも通底している。淡い貝殻色のチュチュに包まれた踊り子たちは、顔貌の個別性にも、肉体の現実感にも乏しい。踊り子を描くドガの手つきは、リアリズムに属している。職業的訓練がもたらした、下がった肩や迫り出した足の甲、コルセットにより不自然に括れた胴、通俗的な健康さをたたえた太り肉の胸元や脚つきといった具合に。しかしここで絵画のなかに捕捉されている身体は、現実的な肉体を即物的に描いたマネとも、石造彫刻のように冷たい質感で、イデア化された裸体を描くアカデミズムの伝統とも、あるいは後世の造語であるファム・オブジェ特有の、フェティシズムを誘発する客体(物質)性とも異なる場所に位置しているように思われる。
オルセー美術館長コジュヴァル氏が本展カタログ冒頭に寄せたテクストには、「俗悪でも美化でもなく」とある。ドガは踊り子たちの身体を、現前するままに、しかしある種の無関心さ──そこには、例えば被搾取階級の女性を生々しく描くといった類の社会的メッセージも、ごく個人的な欲望すらも希薄である――を以て描き出したと言えるであろう。
脱個人化された女たちの身体は、ひとつのセリーとして、ドガの作品に繰り返し登場する。彼が踊り子たちや裸婦を、タブロー、ブロンズ像、写真と様々なメディアによって、反復して捉えようとしていたことは、本展でも確認できる。それは例えば、裸婦をさまざまなコンポジションで描いたセザンヌの、形態探究のためのモティーフとしての人体でも、あるいはイェンゼンの「グラディーヴァ」やヴァールブルクの「ニンファ」のような、反復強迫じみた夢の形象でもない。ここでは女性の身体は、事後的に現われ、しかもそのうちに何ものかを生成させる、支持体ないしは容器のようなものとして機能している。踊り子とは踊る女ではない、というのもそれはひとりの女ではなく、また彼女は踊るのではないからだ――ヴァレリーのドガ評に引かれた、マラルメによる一節である(ポール・ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』清水徹訳、筑摩書房、2006、24頁)。身体は衣服の襞の中に現出し(例えば、衣裳の襞のデッサン)、あるいは瞬時に切り取られ、凝固させられた運動性において初めて把握される(例えば、瞬間的なポーズを決める踊り子を躍動的に捉えたブロンズ像)のである。
ドガのなかには身振りの真似をすることへの奇妙な感受性があった、とヴァレリーは言う(上掲書、93頁)。それは、通常のミミックのごとく身体において再演されるものではない。ドガにあっては、手とメディウムが造り出す形態のうちに、この「身体動作のもどき」が達成されるのである。130点強と程よい展示数ながら、多岐に渡るジャンルをバランスよく取り集めたこの展覧会は、ドガが描き、造ることで対象を捕捉し、再現しようとしたことを、つまりはこのプロセスによって世界を見ようとしたことを――皮肉にも彼は後年視力を失っていき、彼が使用した眼鏡は本展にも出展されているのだが――、私たちに示しているであろう。