1999年8月 ヨーロッパ篇---
熊倉敬聡
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8月5日、6日 イタリア、ヴェネチア
ヴェネチア・ビエンナーレ
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アルスナーレ入口
ビエンナーレの会場、ジャルディーニとアルスナーレに行く。今回でビエンナーレを訪れるのも4回目か。
具体的な展示については、日本でも
(このartscapeを含め)数々のメディアによって紹介・論評
されているので、あえて私自身は語らない(というより、語りたい欲望がほとんど起こらない)。
数年前から、このヴェネチアに限らず、世界であまた行われている「ビエンナーレ」「トリエンナーレ」の、現在における存在意義そのものについて深い疑問を抱いている(ベルリン・ビエンナーレのように、自らを「ビエンナーレ」へのクリティークとするような試みもあるにはあるが)。なぜ、キリスト教のカレンダーに従うのか。なぜ、2年に1度、3年に1度なのか。なぜ、国別なのか。なぜ、「スペクタクル」として現代美術を見せる必要があるのか。なぜ「賞」があるのか。そして「現代美術」という概念自体そもそも未だに有効なのか。等々。これまでも指摘されてきた問題点だが、やはり絶対に無視できぬ問題点である。なぜなら、私にとって「現代美術」(少なくともデュシャン以降の)とはこのような根本的な問題を改めて問い直すものだったからだ。
しかし世界に今やあまたある(あるいはこれからも増えるであろう)「ビエンナーレ」「トリエンナーレ」のオーガナイザーたちは、このような「現代美術」にとっての死活問題をどれだけ深く考えているのだろうか。おそらく、そんなことを考えていては現実に何も仕事ができないと彼らは言うだろう。
しかし、これだけ世の中に情報、イヴェントが溢れ、飽和状態にある現在、あえて「止める」「行わない」ということも(あるいはその方が)歴史的英断であることもあるのではないだろうか。
シチュアシオニストのドゥボールも昔指摘したように、文化は何も「スペクタクル」だけに還元されないのだ。
8月12日 リュブリアナ
建築家プレチニックを詣でる
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リュブリアナの市場
スロヴェニア建築美術館展示室
スロヴェニアの首都、リュブリアナに着く。早速、街を歩く。首都といっても、国自体の規模が小さい(人口約200万人)ので、外見だけでは一地方都市にしか見えない。しかし、省庁を始め、国のあらゆる中枢機構が集中している。
スロヴェニア人の友人に案内してもらいながら散策していると、ここかしこで奇妙な建物や建築的ディテイルに目を奪われる。聞いてみると、リュブリアナの建築家、プレチニックの作品とのことだ。建築に疎い私には、恥ずかしながら始めて耳にする名前であった。しかし、街のあちこちにある彼の造作物を見るにつけ、ますます興味が深くなるのであった。結局、リュブリアナ観光は突如、プレチニック詣でとなる。本を買い、ついには郊外のスロヴェニア建築美術館にある彼の常設展示まで見に行くことになる。
ヨジェ・プレチニック(1872-1957)は、オーストリアの建築家オットー・ワグナーの門下で学んだあと、プラハ、そして故郷のリュブリアナを中心に活躍した、今世紀のスロヴェニアを代表する建築家である。1986年にはパリのポンピドー・センターで大回顧展が行われた(その展示を縮小しリメイクしたものが上記の常設展示となっている)。
彼の作品を表面的に見れば、それはワグナーの亜流であり、しかもピラミッドからアールデコに至るまであらゆる建築言語を折衷する新古典主義の作家にしか見えないであろう。しかし、数を見ていくと、それは単なる折衷なのではなく、彼の個性、いや建築的特異性の表現であることがわかっていく。代表作の「三本橋」やそれに隣接する「市場」などは、その特異な建築的感性が結晶化した好例であろう。
彼は何よりも街を、リュブリアナの街を歩くのが好きだった。そして、歩きながら、歩行者の視点で、この街のプランニングを夢想した。彼のディテイルへのこだわりはそこから来ている。街灯、ベンチ、敷石に至るまで、彼は、自らの建築的夢想を投影せずにはいられなかった。それは、リュブリアナという小都市だから始めて可能になった視点であると同時に、当時のモダニズム、とりわけその政治的誇張であるファシズム建築のパノプティコン的幻想への痛烈なアンチテーゼとなっている。
しかし、歴史は皮肉である。彼の設計したチヴォリ公園の美しい街灯の連なりは、旧ユーゴスラビア時代に自動車道の暴力によって真っ二つにされた。
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