8年ぶりの福岡での個展(新作を中心とした個展にのみ、タイトルの後にナンバーがふられている)では、「障碍の美術」への賞賛だけではなく、批判に作家が誠実に向かい合ったこと、そのものが作品化された。
一昨年広島市現代美術館で開催された、家や家族をテーマにした現代美術のグループ展に和田が「障碍の美術」を出品したときのこと、地元の障害者団体から和田あてに多くの批判文が寄せられた。それらの批判は、「障害は個性である」という主張に集約される。つまり、訓練や治療を日課とする息子との生活を作品化する和田は、訓練や治療を通じて障害を否定しており、さらに障害者そのものを否定していると訴えられている。
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ボーヴォワールの「第二の性」を思わせる《人は障碍者に生れない、障碍者になるのだ》というタイトルの作品では、適切な訓練を受けられなかったり、誤った訓練を受けたりした障碍児が、「障害者らしく」なっていく過程を小さなひとがたで示し、体のひずみをとるための訓練、垂直旋回用の器具(これも実際に使用していた)そのものを展示した《降誕》では、もっとも「虐待」にみえる訓練のさまをあえて紹介している。
とはいえ、反論という立場を借りた一方的な主張のオンパレードではない。《歯のない聖母》という作品では、我が子かわいさ、我が子中心のあまり、他人にはどこか滑稽にすら見える障碍者の親子関係に自身の姿を重ねてみせ、両義的な問題提起の矛先を自分自身にも向けている。
変わらぬ違和感やある種のおぞましさを孕みつつ、実は「障碍の美術」は他者への愛と希望に満ちている。私が「障碍の美術」を見続ける理由はここにある。