工房IKUKO。
IKUKOは、女性物のインナーやナイトウエアー等を制作販売する会社で、地元の女性達に高い評価を受けている。そのオーナーのセンスが遺憾なく発揮されているのが工房IKUKOで、陶磁器やガラス、漆器などが、コンクリート打ちっぱなしの吹き抜け空間に並び、折々にこれは!と思わせる企画展示が行なわれている。
この工房IKUKOの良い点は、まずなにより日頃からの品揃え。日常使いにできる価格帯ながら、いずれも芯があり、そのうえ切れ味のよい作家達の作品が各々10〜20点ほどをまとめて見ることができる。さらに作家探しのアンテナ感度も良好ゆえ、ほどよい間隔で新たな作家が紹介される。それゆえ私はたとえ通常モードの営業時でも月に2、3度はこの店をのぞく。
それにギャラリースペースの傍らには、あっと驚く斬新なしつらえを見せつける花屋さんと、IKUKOブランドのショップも併設されているので、若い女性にも自ずと人気がでよう。
今回、この工房IKUKOで開催されたのが《隠崎隆一・刻印II》。
隠崎は、現代陶芸の世界では誰もが認めるビッグネーム。全国の窯業地がおしなべて停滞するなか、なぜか活気の途絶えぬ備前にあっても、雑誌で作家人気ランキングなどすれば常に1位を争う存在である。
もっとも個展開催が少ないため、その作品をまとめて見る機会は稀少。また寡作なうえ販路も限られているので、市場ではいつも品薄状態。
そんな隠崎の個展を開催できるのも工房IKUKOの実力であり、さらに今回はわずか1週間の会期にも関わらず、『芸術新潮』『炎芸術』のメジャー誌に1ページ広告を掲載したように力の入れようも並々ならぬものがあった。
さて会期は7月1日(日)からだが、その前夜から店のまわりは騒がしかった。前回個展の際には前日夕方から人が並び始め、深夜になって行列ができたため店側が来客への配慮から急遽整理券を配って徹夜で対応した経緯を知っていた私は、わざわざ今回もその様子を見に行った。やはり事情は前回同様。今回は2日前から待っている人がいたとか……。でもそれが作品入手を目指した業者ではなく、学生らしき若者達が、とにかく隠崎作品を見たいがために列をなしているのが凄いところ。
そして開会日の朝には店を取り巻くような行列が出来ていた。
混乱をさけるため少人数ずつ客を店内にいれ、それぞれの客に店員が同伴して対応していたが、おそらく購入はしないであろう若い来客に対しても、実に丁寧に店員が対応しているところがこの店のまた凄いところ。
さて今回は、大型の作品は少なく、10〜20万円程度の価格帯の作品を多くして、全体に価格も抑え気味なところが作家と店の良心を感じさせる。それも徳利と酒盃を組にしたり、作家が各々の木箱に墨書だけでなく作品と対応した絵を描くなどの創意をこらし、作家が作品達を丁寧に慈しんで、ここに並べている様がうかがえる。
隠崎の作品は基本的には用途を持った器であるが、それが既成の形態から大胆にアレンジされ、かつ実にシャープで斬新なデザインを特徴とする。隠崎が作ると、すぐにその形態をパクる作家が現れるが、隠崎作品は成形がともかく丁寧で、ディテールをおろそかにしないため、類似品との違いが一目でわかるほど各作品のクォリティーが高い。
備前焼は原土の特徴を生かすため、「素焼き⇒釉がけ⇒本焼き」と言ったプロセスを経ず、釉薬をかけずに短くとも2週間はかけて一回の焼成で焼きしめる。その原土と焼成プロセスによって得られた土の素材感が特徴であり、多くの作家がその良質な土味を求めた作品づくりをしている。
隠崎もまた土の持つ素材感を巧みに引き出す作陶を行なってきた。ただ彼が採用してきたのは、他の備前焼作家が求める素材感=土味とは、また別の意味での素材感であると思う。
たとえば隠崎の作品には、無理やり土を引きちぎったようなマチエールや、あるいはガラスの破片のようなエッジが採用される。つまり備前土から、たんに美しさを抽出するだけでなく、扱いを間違えれば雑駁な印象すら生み出すかもしれぬものを含め、備前土が可能にする実に多様なテクスチャーを引き出しているのである。そして、それらがロクロやたたら作りの技法により破綻なく仕上げられた部分や、ディテールまで意を配った丁寧な成形と共存することで、それぞれの表情を引き立てあうのである。
さらにそのうえで、そうしたマチエールや仕上げの粗密のコンビネーションが、斬新な器形=フォルムのデザインとも関連しながら構成されることで、密度の濃い、強度をもった作品が成立するのである。それゆえ隠崎の作品は、器や陶器にカテゴライズするより、それぞれがひとつの彫刻であり、さもなくばオブジェであると言っても良いだろう。
このように隠崎が土の多様な表情を引き出していることを違う角度から見れば、やはり備前土が他の陶土に比してもポテンシャルが高いと言うことでもあり、そうした点からすれば、紛れもなく彼も備前の土に多くを追った備前焼の作家なのだとも言える。しかし今、その備前の土自体が枯渇している。
もともと世襲の多かった備前焼作家は、蓄え仕込んだ土を孫の代になって作品化するほどのスパンで土を扱ってきた。しかし近年になって、隠崎のように他所からの備前へと入り一代で制作活動を始める作家が増え、そうした者は自ずとストックもなく、業者を介した土をあてにするしかない。しかし良質な陶土はそう多く採取できるわけもなく、おまけに新幹線開通以来の爆発的な備前焼制作者増によって、慢性的とも言える土不足に陥らざるを得ない。
この状況を自覚する作家達はすでの様々な試みを行なっているが、隠崎も最近になって稀少な土をいかに効果的に用いるかを一つの課題として、今回では幾パターンかの釉薬物も手がけている。その試みはまだ端緒についたばかりゆえ、その達成の是非を云々する時には至っていないが、すくなくともこうした釉薬作品は、たんに目先の変化を求めた軽薄な手遊びではなく、備前の現状に基づいた極めて慎重なそして危機感をもったトライであることが、今回の展覧からも鮮明に伝わってくる。
いずれにせよ、超人気作家が気軽な収入目当てでも、軽い顔見世でもなく、これだけ充実し、かつリアルな仕事を地方のスペースを舞台に実施したこと、そしてそれを受止めるだけの力を備えたスペースが存在することを印象づけた、実に意義深い展観であった。