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Column Index - Aug. 27, 1996


a)【サイボーグ・エイジと舞踏の危機】
   ……………………● 鴻 英良


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Donna Haraway and the Cyborg
http://www.stg.brown.edu/
projects/hypertext/landow/
SSPCluster/Haraway.html

Reverse Transcript - Hyperlink to Donna Haraway
http://www.asahi-net.
or.jp/~RF6T-TYFK/
haraway.html

サイボーグ宣言
The Cyborg Manifesto
http://www.ucet.ufl.edu/
~bruegg/cyborg1.html

サイボーグ・エイジと舞踏の危機

●鴻英良

 

サイボーグ化した身体

1985年、ダナ・ハラウェイは「サイボーグ宣言」を書き、有機的身体にたいして死を宣告したのだが、身体がますますサイボーグ化しつつある現在、ダナ・ハラウェイの宣告は、そのリアリティをいよいよつよく獲得しつつあるように思える。サイボーグはポストジェンダー・ワールドの産物である。あるいはサイボーグは、両性愛とも、前エディプス神話的共生とも、疎外なき労働とも関係がない、というような彼女の言葉は、スキゾフレニックな世界に身を委ねようではないかという勧めでもあるのだけれども、こうした世界観は、ダナ・ハラウェイ自身が語っているように、もちろん、ミシェル・フーコーの思想のフェミニズム的な反響である。
  ものはそもそものはじめにはその完全な状態にあったとひとは信じたがるけれども、そもそものはじまりになにか崇高なものがあるというのは神話にすぎず(これをわれわれは起源神話という)、もし、われわれがものの系譜を歴史的にたどっていくならば、そこに現われてくるのは、それらのものの本質をなすなにか、あらゆるものに先立つ不動のものなどではなく、そこにあるのは、むしろ、偶発事、微細な逸脱、誤謬、計算違い、などなどであるにちがいない、とフーコーは『ニーチェ・系譜学・歴史』(1971年)のなかで書いている。だから、われわれは起こったことをそれ固有の散乱状態のうちに保たなければならないというのだ。
  そして、このような思想がダナ・ハラウェイによって、肉体の戦略のなかに組み込まれていくわけだが、かくして、有機的身体が、西欧的な起源神話とともに追放されてしまったのだとすれば、むしろ統一的な全体性を願ってきた舞台上の肉体はなにをすればいいのだろうか。グロトフスキなどによって理論化され、実践されてきた肉体、60年代以降の前衛を特徴づけるこのような肉体の表象のありかたは、いまどう批判されなければならないのか。

舞踏の現在

もしいま舞踏が語られなければならないとするならば、それはこのような文脈においてではないだろうか。舞踏もまたサイボーグ的なものともっとも遠いところにあると考えられているからである。そもそも舞踏というのは大地に足を踏みつけて舞う踊りのことをいうのだろう。そのことで土地の霊を呼び起こそうとしたものだったのだろう。そうしてグロトフスキのことばを借りれば、部族の精霊的エネルギーを呼び起こそうとした身振りにかかわるものだったのだろう。その意味で舞踏は、ポストモダン的というよりは、モダンとプレモダンの確執を肉体のうちに刻印しようとする試みであったのではないか。
  こうして舞踏の身体はやや呪術的、巫女的なものになったりしていたのだ。「芸術とは…中略…われわれのうちにひそむ暗黒がゆっくりと照らしだされてくる過程である」といったのもグロトフスキだが(「持たざる演劇をめざして」)、まさに人生の仮面がむしりとられたあとで現われてくるとされていた自分自身の真実、そういったものを呼び起こそうとすること、つまり、暗黒を明るみにだすこと、そのことをめざしたグロトフスキのプロジェクトはそのまま暗黒舞踏のものでもあったにちがいないのである。
  といいつつ、私はただちに前言を翻さなければならない。なぜなら、いまや、人々はそれほどにナイーブではないからだ。今年の夏、白州で展開されているダンス・フェスティヴァルにおいて、ダンサーたちに課せられた唯一の課題は、昼間、白日のもとで行為を遂行しなければならないということであった。
  闇のなかで蠢くなにものかにかすかに光が当てられたとき、そこからなにか神秘的なものがたち現われてくるというような神話的な幻想、そうした神話そのものを追放するかのように、ダンサー/パフォーマーたちは、昼間の陽の光のなかで、なにかを遂行しなければならないのだ。どこを使うかはほぼ自由である。だが、どこを使うか、そこでなにをするのか、その選択と決断こそが問われるのである。だが、どのような決断がなされなければならないのか。

舞踏的身体と舞踏の可能性

こうして舞踏的な身体もまた、自足することを拒絶しなければならないような場所に追いやられつつあるのだけれども、たとえば、コンクリートの壁に幾度もぶつかりながら、その度に鈍い音を立てていた田中泯の肉体のなかに、エネルギーの解放というような神話の終焉を見ることができるとするならば、肉体の自足的な統一性へと回収されない新たな肉体の表象の可能性を舞踏的表象の新たな展開のなかにも見ることができるかもしれないと思うのである。
  私は最近「エイズの身体」ということばを頻繁に使っているが、これは統一的な身体像の終焉のあとで現われるべき身体のひとつのモデルなのであり、それは具体的にはサイボーグの身体として現われつつある。舞踏の可能性はこうした身体といまいかにかかわることができるかにあるのではないだろうか。

[おおとり ひでなが/演劇批評]

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