勅使川原三郎を体験する ─ KARAS ワークショップ ●熊倉敬聡
「足の裏」を感じる
勅使川原三郎は、1981年にソロデビュー、85年にカンパニーKARASを結成。研ぎ澄まされた感性を限りなくしなやかな肢体で表現、構築しうる希有なダンサーとして世界的に活躍する。94年には、ウィリアム・フォーサイスの招きで、フランクフルト・バレエ団の振付も手がけている。
しかし彼は単に踊り、振り付けるアーティストではない。彼は公演とともに、「ワークショップ」を重視する。勅使川原にとってダンスとは、作品の創作・発表の中にだけ特権的にあるものではなく、日々の、刻々の身体の動き、そしてその動きを通した様々な人々との出会いにあるのである。そんな彼にとって「ワークショップ」とは必然の営みだ。世界中、公演する地で、スタジオあるいはストリートで、彼はワークショップを開き、彼のダンス哲学を伝えていく。そして、94年4月からは、セゾン文化財団の助成の下に、今年の3月まで継続的にワークショップを行ない、以後、独自のスタジオをもって展開している(講師は主にKARASの家永光一)。
私は、去年の夏から参加し、現在に至っている。
ダンスの実践は全く初めての私がまず、参加初日に驚いたのは、「足の裏」を感じるという作業だけに3、40分が費やされたことである。よく考えてみれば、直立二足歩行である我々人類は、大地との接点をただ「足の裏」だけに限定している。地面との関わりにおいて初めて成り立つダンスにとって、足の裏はすべての原点に他ならない。しかし、通常の人間の生活では、足の裏は何やらほの暗く薄汚い部位として疎んじられ、私自身もそのように扱ってきた。そんな事実を生まれて初めて、まざまざと30分の間、私は、足の裏が微妙に拡がり行くのを感じつつ、味わった。
「型」からの脱出あるいは 「器官なき身体」へ
すべてはそこから始まり、身体のあらゆるところをただただ「感じる」ことに集中していく。しかもそれは身体の表層だけではない。「呼吸」を通して、内部の様々な箇所を感じ、目覚めさせていく。そう、「呼吸」。人間が生物である限り、生まれてから死ぬまでこれだけは絶対に欠かせない身体の原初的な運動。身体の動きの展開に他ならないダンスにとって、この呼吸という、運動の基本が何よりも重要なことを、「足の裏」とともに、生まれて初めて発見する。
こうして、身体の外・内を十分に感じるようになったあとに入っていくのが、なんと「型」からの脱出の作業であった。通常、古今東西を問わず、踊りといえばまず「型」を習得し、それを複雑に組み合わせていくことと考えていた私にとって、これもまた衝撃であった。講師によれば、人間の身体はある文化圏に生まれ落ちてから、その文化が押しつけてくる様々な型=習慣を細胞の隅々まで吸収し尽くしている。勅使川原の考えるダンスとはまず、その型を身体から抜いていくこと、頭のてっぺんから手足の先まで、型から解放し、ばらばらな、ふわふわとした身体を作っていくことにある。少し高級な哲学的ジャーゴンを使えば、「器官なき身体」(Deleuze & Guattari) といったところか。
この、器官=型が外された空気のように軽やかな身体から、呼吸の運動に合わせて、少しずつ「動き」が、踊りの「目覚め」のようなものが生まれていく。まだ一年しか経っていない私にとっては、今この地点の体験がやっとだ。今後、ますます自由で軽やかな、しかしながら鋭く透き通った身体が生まれてくるのだろうか。
現在ワークショップへの参加人数は120〜150名である。そして日本では、勅使川原だけでなく、多くのダンスカンパニーが(経済的理由もあってか)ワークショップを行なっている。80年代以降盛んになった海外の有名ダンスカンパニーの来日公演の受容とともに、これらダンス実践者の静かな拡がりは、果たして、フォーサイスやピナ・バウシュに匹敵するような身体創造をこの国に誕生させるきっかけとなるのだろうか。
[くまくら たかあき/フランス文学、 現代芸術]
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