藤原隆洋は話しながら何度もニヤリと笑う。学校のやんちゃ坊主が彼の中にいるかのように。そしてときどき彼の作品の中にもそのやんちゃな顔をのぞかせる。「性」をテーマにしつつ人を笑わせる彼は、人間の欲望と社会的制約や抑圧の中にすきまやゆがみを見つけ出し、それらを戦略的に作品化している。このインタヴューは、ミヅマアートギャラリーで「おとなのオモチャ」をモチーフにした作品の展覧会《Beans》を開く藤原隆洋とその作品について nmp_iから海外に向けて発信するために、アーティストの中村ケンゴがインタヴューした。
――東京芸術大学での専攻は油絵でしたよね。学生時代はペインティングをやっていたんですか。
藤原:いや、やってない。最初につくった作品は自分の全身の型を取って、それらを組み合わせてひとつのフォルムをつくったりとか……。そのときは漠然と自分のからだとか身体に興味があったのかな。
――今まで発表された作品を見るとセクシャリティの問題を扱ったものが多いと思うのですが最初は身体への興味から入っていったということですか。
藤原:そんなに深いものはなかったですよ。今思うと、たけしの影響が大きいのかもしれない。
――ビートたけし?
藤原:そう。僕らの世代は小、中学生くらいの頃、深夜のラジオ放送を聴くのが流行ってて、受験勉強しながらも聴いてたくらいなんですよ。僕は小学校5年生くらいからビートたけしの「オールナイトニッポン」という番組が大好きで、それが後の運命を左右したと言ってもいいくらい。その番組は完全に「下ネタ」がメインでそれが大好きだった(笑)。
今だから言えることなんだろうけど、本当に人を笑わすこととか、驚かすことが好きで、そのビートたけしの「オールナイトニッポン」という番組では「下ネタ」を使って、それもいかに直接的な表現をしないで人を笑わせるかってことなんですけど、そういうことってすごいと思ったんですよ。笑わせることってすごく知的なことだと思うし、芸人さんて尊敬しますよ。
――そういうやり方で不特定多数の人の心を動かしたいという欲望が藤原さんにはあったということですね。それがどうして結果的にアートという表現になっているんでしょうか。
藤原:実は母親がペインターなので、子どもの頃から家には油絵の具のにおいがしてて……それでやっぱりものをつくるのは好きだったんですよ。
それで僕に何ができるかって、芸人は無理だと思ったし(笑)、もっと得意分野があるだろうと。子どものころから絵がうまいとか言われてたし、ものつくるのが好きだったし、それで何かできるかもしれないというのがあったかもしれない。
――「下ネタ」について話しましょうか(笑)。
藤原:そこで問題なのは、たけしの番組の話にもどりますけど、同じ下ネタでもあまりに直接的だと単に下品になりすぎてイヤでしょ。でもその手前で笑いにするテクニックってすごいなと(笑)。人を笑わせるってすごく大変なことだし、戦略が必要でしょう。
――そういう意識が藤原さんの作品のもとになっていたんですね。
藤原:僕の作品は「おとなのオモチャ」をモチーフにしたものがたくさんあるから当然セックスの話になるんだけど、実はあんまり関係ないんだよね、セックスのこと自体は。もちろん自分は女は好きだし、セックスは好きだし、一番頭のなかで考えてることだし(笑)、そういう基本的なところから作品を展開できれば一番リアルなんじゃないかと思ってますが。コンセプトは何ですかって聞かれたら「生が一番です」って言ってるし(笑)。
――作品を見る限り非常に東京的なものを感じるんですよ。
東京ってこういう表現に対してあまり抑圧が無いところだと思うんです。外国だったらやばいっていうのがあるでしょう。
藤原:それはあるかもしれない。
よく外国人に、これやってもOKなんですかって驚かれます。
――こういう性的な表現を明るくやってしまうのって東京的だと思うんですよ。
藤原:セックスって誰でも興味のあることでしょ。でも自分自身の体験とかそういうものを持ってくるのはすごく生っぽいし、例えば「おとなのオモチャ」とか、生じゃ無いものを持ってきて、なおかつテイスト的には「かわいい」とかを持ってくることによって表現としてはタブーであったりすることからの逃げ道になったりとか……。そういった、作品に「かわいい」というイメージを持ってくるのは、(観客を)作品に入れ込むための餌というか。
――作品の間口を広くするためにそういった要素を持ってくるということですね。そして東京では、その戦略が有効だということだと思います。
でも、もしこれをヨーロッパで発表したら、もっと違う反応があると思います。もっと深刻に受け止められてしまうんではないかと。彼らは性的な表現に対してもっと、政治的、歴史的な視線があると思います。(こどもがダッチワイフをモチーフにした作品にまたがっている写真を見て)これなんてとくに問題だと思いますが。
藤原:そうですね。そのことについてはすごく言われます。だからこれは日本でしかできないことなのかなとか思います。
――この子ども達はどういうリアクションをしましたか。
藤原:撮影のために公園に持っていったんですが、そこにいた子ども達が新しい遊具が来たと思って大喜びしたんですよ。それで一緒にいたお母さん達が「区役所の方ですか」って(笑)。この作品は最初は人を乗せることまでは考えてなかったんですけど、子ども達が乗りたいというから、乗せてあげたら大喜びで遊んでました。
――でも作品を見て母親達は平気だったんですか。
藤原:ちょっとビクビクしてましたけど、自分が芸大生で作品を撮影しに来たということを伝えたら、じゃあ乗ってもいいよと。
――母親達は芸大生ということで変に納得してしまって、作品自体についてはあまり深く考えなかったんでしょうね。外国では考えられないことだとは思いますが。
こういった表現に対して自分でリミットは決めていますか。
藤原:あります。
セックスのことについて言えない部分を補完する意味でこういう「おとなのオモチャ」を持ってきているんです。
――セックスに関わる身体の問題とかを扱うアーティストは海外にもたくさんいますが、藤原さんの場合、身体そのものを使うというよりその快楽を媒介するするためのそういった道具を使っていますよね。
藤原:そう。さっきも言いましたが、だからセックスそのものについてでは無いんだよね。選択するためのひとつのきっかけにさせているんです。ある欲望に対して自分はそれを操作するのかされるのか、とか。
さっき「生がいい」っていったけど、みんな欲望に対して本質的な部分が薄っぺらくなってると思うんですよ。
――たしかに自分自身の、例えば性的な欲望について本当にそんなによく知っているのか、ということはありますね。東京はそういったことについてあまりにも抑圧が無いことによって、逆に自分自身の欲望のありかについて鈍感になっているんじゃないかとも思います。藤原さんの作品を見て、自分たちの欲望はこんなに人工的で、風船のようにふわふわしたものなのかもしれない、と感じたりもしますし。
東京は子どもでも簡単にエロ本が手に入るし、SMとか同性愛とかに対してもあまり抑圧が無いような気がするのですが。
藤原:いや、抑圧はたくさんあると思います。
作品をつくためにいろいろと取材もするのですが、ホモの人たちなんかも家に帰れば妻も子どももいて会社では高い地位だったりする。でもそこでホモだって公言した瞬間にそういうことはすべてダメになる。だから一切パブリックな場所ではそういう部分を見せない。だからこそ、欲望の本質を知っていたりするのかもしれないけど。
――性的なことに対して抑圧が無いというより、性的な表現に対して抑圧が無いといったほうがいいのかな。
メディアにはあらゆる性に関する情報が流れていて、そういうところではSMとか同性愛とか本来はタブーとして考えられていることも非常にカジュアルに扱われています。しかしそれゆえに性に対する幻想というのは、株で言ったら大暴落しているっていうか(笑)。だからより刺激的なもの見せないと自分の欲望さえわからなくなっているというか。藤原さんの作品て、ちゃんとした欲望を思い出せ、と言ってるようにも感じてきた(笑)。
藤原:そうですね(笑)。
これだけ情報があるからこそ大事な部分をはしょり過ぎているようでもったいないと思うんですよ。僕が見てる東京っていうのは何かを求めるとき、その欲求を満足させるために本当に満たされるところまで努力しないである程度のところで満足したふりをしているような気がするんですよ。だから僕の作品の場合、笑いにしないと表現できない。本当はあまりにも重い問題だから。
――現実にはあるダークな部分を見ないでカジュアル化された情報だけを消費しているというか、僕達は欲望のうわずみだけを掬っているのかもしれない。
藤原:でも、今はそれでも別にいいんだよね。それで済んじゃっている、というのが東京なのかもしれない。
[from nmp_i 1998 Feb.] |