近現代美術・デザイン・建築の分野において意欲的な展覧会を開いてきたセゾン美術館は、残念ながら近い日に休館してしまうそうであるが、デ・ステイルを集大成的に扱った本展覧会は、そのまま美術館自体の晩節を飾る意味でも、その質・量ともに堪能できるものとなっている。昨今の研究状況を踏まえ、デ・ステイルという運動体の総体を描き出すために、各メンバーによって提出された多様な可能性を時系列的に可能な限り拾い出すことが目指されている。
「デ・ステイル」という運動体においては、究極的な統一目標として新しい抽象造形原理を創造することにベクトルが向けられていたといえようが、たとえばこの運動体を中心的にプロデュースしたドゥースブルグのそうした理想地=「デ・ステイル(様式)」へと誘導せんとした軌跡を、展覧会上にて意識的にトレースしてみるとき、他のメンバーの方法や理論のふれや相違点がより確認されてくるであろう。具象と抽象の間の距離感、「空間」という認識の方法に対する相違、物質性への態度、絵画芸術という形式へのこだわりなどといった点における相違が、絵画、彫刻、家具、インテリアなどを通じた一連の試行を比較することによって浮かび上がってくる。そうしたなかでも、「建築」という表現方法にいかに対峙するかが、その作家間の方向性の相違を決定する最も明確な要因となっていることは、デ・ステイルの特色であるといってよいだろう。あくまでも絵画平面上、直交座標系において純粋な抽象にこだわるモンドリアンと、斜交座標を導入しつつ、より空間芸術への拡張を狙い「エレメンタリズム」を提唱したドゥースブルグの対立の構図などが代表例として挙げられようが、本来的に平面上の方法から編み出されていったデ・ステイルの抽象理論を、ドゥースブルグがどうにかして3次元空間として結実させんとする苦悩のあとが、ドローイング、模型、写真などを通してひしひしと伝わってくる。それに対して、モンドリアンの絵画にあらわれた理論的純粋性と溌剌としたまでの自由度は、まさに建築との絶対的な距離がもたらしたものであろう。おそらく、モンドリアンにおいては、近代以降、顕著に建築から独立した位置を獲得することによって、観念的なものをより純粋に表象する形式として可能性を見いだされてきたはずの絵画を、ふたたび建築のもとへ従属させてしまう行為として、反動的に映ったのではなかろうか。ドゥースブルグは「総合芸術」としての建築という近代の時代的命題への憧憬から、再び絵画としての純粋性から諸芸の統合としての「建築」へひるがえることで、より困難な道を選択したのかもしれない。
本展覧会では比較的に建築プロジェクトの紹介に力が注がれているように見受けられるが、上述のような理論をめぐった困難さからは比較的自由であったと映ったのが、リートフェルトであった。この家具職人上がりの建築家の軌跡に眼をやるとき、家具から建築まで貫かれたナイーブなまでの実体的なものからの思考が伺える。私はかつてシュレーダー邸を訪れたとき、デ・ステイルが理論的に追い求めていたメタな抽象空間が表現されているというよりは、まるで家具の巨大な集合体であるかのような印象を受けた。一見エレメンタリズムを標榜するかのようなそのフォルムに、一つの具体的なものとしてのパーツから思考する家具職人によって、それらが組みたてられていくといった設計方法を読み取ることができるのであるが、おそらくドゥースブルグら絵画から出発した理論家のアプローチからは最も遠いところにある方法であろう。それが結果的に最も「デ・ステイル的な建築作品」として結実したとするならば、まさにこうした側面にもデ・ステイルの運動体としての多様なポテンシャルを確認することができよう。 |
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