島袋の作品はわかりにくい。てゆーかー、作品がどこから始まりどこで終わるのか、どこからどこまでが作品なのかを見きわめにくいのだ。
たとえば、彼のデビュー作ともいうべき「タコ街道プロジェクト」では、明石で捕れたタコを日本海に放つために列島を横断した。明石は彼の実家のある神戸のすぐ近くだし、タコの名産地でもある。また前作の「シマブクロ・シマフクロウ」では、自分の名前に似たフクロウを求めて沖縄から北海道までヒッチハイクした。沖縄は彼の祖先の出身地であり、その対蹠点の北海道に自分の名に類似するシマフクロウを探しに行くというのは、“自分探しの旅”のパロディともいえる。いずれにしろ彼の作品は、自分の身近なところから出発し、物語を紡ぎ出していくことで成立しているようだ。
今回の「鹿をさがして」と題された個展は、島袋が昨年の暮れまで滞在した茨城県守谷町のアーティスト・イン・レジデンス「アーカス」でのプロジェクトの延長である。彼は、守谷町にいそうもない鹿を探して自転車で町中をうろつき、だれかれとなく「ここらへんに鹿はいませんか?」と声を掛けていった。ちょっとアブナイ兄ちゃんだ。なぜ「鹿」かといえば、アーカスに行く前、彼の住んでいる名古屋の動物園で見かけた鹿にシカトされたからだという。きっかけはごく些細なことなのだ。
守谷町では、青いスポーツカーに乗った姉ちゃんとドライブし、大根に木の枝を挿した「白鹿」を海に流したり、ある農場で飼われていた馬の頭上に背景の木を重ねて鹿に見立てたりとか、それこそ「馬鹿」みたいなエピソードもあったりする。そんな、他愛もないといえば他愛もないが、どこか暗示的なエピソードを水彩ドローイングで表し、ビデオや写真でドキュメントしたものがこれだ。
水彩ドローイングは写生ではなく、稚拙ながら象徴的表現を有して魅力的だし、ビデオは意図的におもしろおかしく見せようとせず、そのまま流している。しかし、そうした「作品」は会場の半分ほどを占めるにすぎず、一隅には作業机が置かれ、道具の入った箱や紙袋が積み上げられて、いかにも作業中といった風情である。つまりこれは、アーカスでの成果=作品をただ場所を移して展示したというのでなく、このプロジェクトが未完のままオオタファインアーツに引き継がれた、と見るべきだろう。
このように島袋の作品は、物語をどのように立ち上げ、どのように展開していくかが見どころであり、結果がどうなったかはさして重要ではない。タコが無事に日本海にたどり着けたかとか、実際にシマフクロウに出会えたかといったことはどうでもいいのだ。鹿が見つかったかどうかもまたシカり。問題は、様々な困難を乗り越えてゴールにたどり着くことでも、旅先で出会った人々との心温まる交流を描くことでもなく、無限の選択肢の中から1本のストーリーを、それもとびっきり叙情的な現代の民話を紡ぎ上げていくことである。そこがゲームとも猿岩石とも異なる点だ。
今日も彼は柔らかな関西弁で女の子に話しかけ、友人宅を泊まり歩いているに違いない。「鹿を見ませんでしたか?」と声を掛けられたら、それはきっと島袋である。 |