「環境というのは人工的に全て造り上げて、初めて使い方がわかるんです。……私たちが奈義(の美術館)で徹底してやったことは、1ミリ四方といえども与えられたものの世話にならないということです。だから龍安寺の庭にしても、本物を持ってきてはいけない。全てあそこに作ったんです。少しは開拓されたボキャブラリー、それを使ってインスタントに歴史的環境を造り上げて、その環境があなたなんだということを、静かに言いたかったんです」(*1)。
ある「環境」を「人工的に」そして「インスタントに」まるごと全て「造り上げる」こと。そこに人物や事物が配置され、物語が展開し、カメラは回る……。これは確かに映画がその誕生以来持ち合わせてきた性格だ。しかし何かが違ってきており、『タイタニック』はやはりある種の「亀裂」を映画史にもたらす。さまざまなメディアが既に(「静かに」ではなく声高に)伝えているように、監督のジェームズ・キャメロンは誇大妄想的な偏執狂(?)であり、1912年4月15日に北大西洋上で沈んだタイタニック号のほぼ実物大のレプリカをスタジオに設置された巨大な海水タンク上に「造り上げ」、細心の注意を払って内装や調度品等々を当時のまま設えたあげく、沈没させている。キャメロンも荒川同様にそうしたプロセスを経ることで初めて「環境」の「使い方(いかに映画を撮影すべきなのか)がわかる」という考えの持ち主なのだ。
この作品を契機に映画における「リアルさ」の意味が変貌するだろう。ハイパーリアル?「大気もないハイパーな空間で四方に拡がりつつある組み合わせ自在なモデルが合わさってできた産物」(*2)。『タイタニック』はそうした「産物」なのか? 確かに“シミュレーションの先行”とでも呼ぶべき事態が存在する。海底に沈む船の様子を映し、前もっていかに船が沈んだかを正確に「再現」するCG画像をも私たちに目撃させたうえで、おもむろに物語は開始される。シミュレーションの先行、「全ては前もって死に絶え、予め蘇っている……」。だがこの映画のヒロインで事故の生存者である女性は「確かにそう沈んだだろうが、私はそれをまったく違うものとして体験した」とそのCG画面によるシミュレーションを見守りながらつぶやくのだ。「発生的ミニアチュール化こそシミュレーションの次元だ。そこで実在はミニアチュールの細胞やマトリックス、そしてデータの記憶や命令のモデルが造られる――それを基にして無限にくり返し実在は複製されるのだ」(*2)。しかしキャメロンはそうした「データの記憶」に亀裂を見出すだろう。それが船上でヒロインが出会い、恋に落ちる若い画家(模造の造り手!)の存在に他ならない。私たちが映画を通して目撃するこの魅力的な男性は“タイタニック・オタク”が全精力を傾けて調べあげた「データ」の〈外部〉だ。出航寸前にポーカーで三等切符を獲得したこの男の名や存在は「完璧に」忘却され、いかなるシミュレーションからも脱落する。だから映画はある種の可能世界を提示するのだ。もしあの船に若い画家志望の男が紛れ込み、ある女性と出会い、恋に落ちたならば……。