現代アートで世界的にもっとも知名度のある日本人アーティストといえば、真っ先に河原温の名前を挙げなければならない。その彼の本格的な回顧展が、東京で開かれたことをまずは素直に喜びたい。
私が、最初に彼の作品をまとめて見たのは、77年のパリ、開館したばかりのポンピドー・センターで、数多くの日本人アーティストのなかから第一番目に選ばれて開かれた個展のときだった(出品作はデイト・ペインティング)。しかしながら、70年代のパリにおいても、河原が属しているコンセプチュアル・アートは、ポップ・アートとは異なり大衆には馴染みの薄い存在だった。ポンピドー・センターでの彼の個展も、人影はまばらだったと記憶している。それからすでに7500日以上が経過した(この間彼は、何枚のペインティングを描き、何枚の絵葉書を送ったのだろうか)が、この20世紀の重要なアートのムーヴメントをめぐる状況は、少しは改善されたのだろうか。
コンセプチュアル・アートを難解にしている理由とは何か。しかし、河原の作品を見てわかるように、その見掛けはけっして難解ではない。モノクロームの下地のうえに描かれた日付、送り届けられる電報や絵葉書の文面(I am still alive. I got up at... )は、気が抜けるほどシンプルで誰が見ても一目で理解できる。コンセプチュアル・アートが一般の人々に遠ざけられるのは、その表現方法が彼らの常識となっているアートの習慣から外れ、またモティーフとなっている写真や記号が、無味乾燥で単調だからにほかならない(アーティストが、批判的観点から、作品が商品価値をもたないように配慮していた面もある)。しかし、そのテーマに関してはどうか。
コンセプチュアル・アートとは、まさにアートにおけるテーマの重要性を再確認し、それを浮き彫りにする作業だった。テーマの重要性をテーマにしたアートといえばよいか。それゆえ、コンセプチュアル・アートの純粋な極限的形態のひとつは、あらゆる物質的素材を捨象したうえに、テーマという意味内容をまったく空にして提示した作品ということになろう。河原の作品にも、このように抽象的で空虚な傾向ははっきりと見て取れる。しかし、余計なものをストイックに削ぎ落とした彼の作品からは、それでも零に還元することのできない過剰な何かがひしひしと伝わってくる。それを、構成要素のぶっきらぼうな配置のなかから明確に把握することは、たしかに容易ではない。作品には常時使われる言葉を、作者の意図の表明に用いることのないアーティストではなおさらである。
河原は早くから日本を離れ、世界を放浪するコスモポリタンという独自のライフスタイルを作り出した。その徹底ぶりは、美術界との付き合いにも現れ、現在アトリエのあるニューヨークでは、展覧会のオープニングなど人前には絶対姿を見せることはない。ソホーあたりで彼と擦れ違ったとしても、ほとんど気付かれることはないだろう。私は、何回かギャラリーを訪れた河原を目撃したが、目は鋭いけれども、痩せた顔付きと目立たない地味な見なりの彼は、とてもアーティストとは思えなかった。このように、彼は人々の間に身を隠すことで自らを匿名的に孤立化させ、彼の産み出す作品を、世界の出来事を無差別に通過させる空虚なシニフィアンにすると同時に、その裏に蠢く消すことのできない実存の呻きを感じ取らせようとするのである。この意味でも、彼の作品が生れ故郷の日本に帰ってきたことは、もう一度戦後の、アートのみならず、人間と社会の関係を再考するきっかけを与えてくれるのではないだろうか。 |