かならずしも「駆使」というふうにではないにしてもPAと照明に配慮し、チェロを除いた3人はスタンディング、ときにマイクをとって聴衆に語りかけることで音楽そのものとはちがったコミュニケーションをはかり、クラシックや現代音楽というよりは自作=オリジナル作品をプログラムの中心に据える。これがアレクサンダー・バラネスク率いる「バラネスク・カルテット」の基本的なライヴ・スタイルだ。
アレックス自身の作品はといえば――本人がコンサートの翌日のインタヴューで答えてくれたのをそのまま使わせてもらうなら――、ナイマンやブライヤーズという作曲家の作品を自分は演奏してきた。彼らはほんとうにすばらしいけれど、その次を引き継ぐ作曲家がいなかった。だから自分で書くことにより、その不在を埋めようと思った、ということになる。これは或る意味で自己正当化、プレテクストであるのは明らかだ。良くも悪くも、アレックスの曲はナイマンのスタイルを踏襲しているわけだし、それは同時にイギリス・ミニマリスムの文脈を補強しさえするのだから。
今回のコンサートでは、P.ハースの映画『ANGELS AND INSECTS』のために書かれたピース、YMOをカヴァーした『East
meets East』、そしてオリジナル作品を集めた『Luminitza』、それぞれのアルバムから何曲かが選ばれ、演奏された。YMO作品のときには全員がサングラスをかけて登場するなど、ちょっとしたユーモアもこめて。こんなとき、ステージではいつもソフト帽を被っているアレックスが、ほとんどジョン・ベルーシに見えるのも笑いを誘う。多分に意識的であるにはちがいなかろうけれど。
バラネスク・カルテットの演奏について、通常の「クラシック」畑で定評のある弦楽四重奏団の特質などと対比をすることは意味のあることではない。作品への理解や共感、ひとつひとつの的確な音色、アンサンブルの緊密性等々、はこのカルテットを語る語彙とはいえない。また、アレックスがかつて属していたアルディッティ・カルテットや、なによりも弦楽四重奏という編成を全く新しいイメージとして打ち出したクロノス・カルテットのような現代音楽プロパーのアンサンブルと比較するのも、すこし、ちがっている。作曲家がいて、作品が生まれる。また、作曲家が演奏家との関係を保ちながら、新しい作品を生みだす。こうした例が多くの弦楽四重奏のありようだったし、それはアルディッティでもクロノスでも変わらない。しかし、バラネスクにおいては、演奏家が自ら曲を書き、そのまま演奏するというコンポーザー=パフォーマー的な様態が示される。これはシンプルなようで、かなり大きなちがいだ。「クラシック」とその延長上で生まれている「現代音楽」というよりは、はるかに他のポップ・ミュージックのほうに近いありようであるからだ。たまたま彼らがクラシックの訓練を受け、クラシックの演奏家として先に名が出てしまい、弦楽四重奏という因習的な楽器編成を組んでやっているがために、いささか回りくどい説明をしなくてはうまくはまらないというような。
「現代音楽」を聴き馴れ、「前衛」的でなければ楽しめないというようなひと、また、「クラシック」のイメージをファンタスムのように抱きつづけるひとにとって、バラネスク・カルテットは大して意味をもたない。しかし「大して意味をもたない」ような音楽の聴き方=効き方というのは確実に存在し、疲弊したり、旧態依然たる或る種の音楽より、よほど多くの共感を得られることだってあるということを忘れてはならないだろう。都心で毎日似たり寄ったりのプログラムが4つも5つも行われている、客席では閑古鳥が啼いている、そんなクラシック界の状態を片方に見ながら、バラネスクのコンサートに足を運ぶと、未来はまだこっちのほうが分がありそうだという気にもなってくるのだ。
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