本展カタログの年譜にも記載されているが、石元泰博の写真家としてのキャリアは 終戦直後の40年代後半、当時滞在していたシカゴのインスティテュート・オブ・デザインで写真技法を学んだことに始まる。石元がそこでどのような訓練を受けたのか詳らかではないが、少なくとも「ニュー・バウハウス」とも呼ばれたこの学校が独自の指針やプログラムによって指導を行っていたことは確かだし、また後年、東京の美大や専門学校で教鞭を執るようになった石元が、かつて自分が受けたであろう指導を反復していたことを、彼に師事した若い写真家の証言によって確かめることもできる。
バウハウスの理念を体現した写真家と言えば、やはり代表格はラスロ・モホリ=ナジだろう(そして彼は、「ニュー・バウハウス」の創設者でもあった)。カメラを使わない写真、いわゆる「フォトグラム」を発見したモホリ=ナジは、その技法を最大限活用することによって斜めの不安定な構図、極端な明暗のコントラスト、ネガとポジの反転、「フォト・プラスティーク」と呼ばれるメッセージ性の強いコラージュなど、従来の写真表現の枠組みを超える作品を次々と発表し、また後進にもその可能性を伝えていった。折しも、「写真は光の造形である」であると確信したモホリ=ナジが新たな写真表現を開拓したのは、ベンヤミンが複製技術としての写真に芸術の存立基盤を根底から揺るがす特性を見た( *1 )のとほぼ同時期であり、極論するなら、以後の写真 史は「芸術」と「写真」との相関関係の中で発展してきたと言ってよい。やや極端な例だが、「芸術」の側に傾斜した試みとしては、「写真のミニマリズム」とも呼ぶべきベルント・ベッヒャーやトーマス・ルフの「タイポロジー」を挙げることができる。無論、石元のスタンスは彼らとは全く異質のものだが、そもそもの源流を同じくするところに、写真史におけるバウハウスの広範な影響力が伺われるだろう。
もちろん、写真家としての出発点がバウハウスにあるからといって、その事実のみによって石元の仕事を包括的に語れるはずはないし、ほぼ半世紀に及ぶ膨大な仕事を一度に展観することはなおさら無理な話である。必然的に特定の基準による取捨選択が為されねばならない中で本展が選んだ方途は、「シカゴ、東京」というその副題が示すように、石元が長い年月を過ごした二つの都市を舞台とした写真を年代別に再構成し、その都市観を記録的側面を合わせて回顧することだった。この二つの都市の風景には、地理的な隔たりがもたらす大きな相違が存在する一方で、資本主義の展開に即応して風景もまた変成を遂げていった時勢との同調という相似もあるのだが、主に後者の相似にスポットを当てた本展の企画意図は、石元の都市に対する姿勢をより適切に反映していたように思われる。ありふれた人々の立ち居振る舞いや街の雑踏、あるいは都市の片隅の空き缶や水の波紋などに強い関心を寄せる石元の視線は、半面シアーズ・ローバック・タワーなどに代表される高層建築、資本主義のメガロマニアックな欲望に対応したアーバニズムに対してはどこかシニカルだ。本展に出品されている、かなりの数に達するボケやブレを孕んだ写真が、日常の連続した視覚によっては決してとらえられない都市の断面を切り取り、光と影、あるいは再編される空間の歪みをとらえることに成功しているのもその一証左と言えるだろう。
鮮明な具体性を伴った写真が、必ずしも「現実」と対応しているわけではない―― 本展は、特定の時空間を切り取る写真本来の記録的機能を重視する一方で、ボケやブレをもある種の映像の質として積極的に活用する石元の写真表現が、都市空間に対して優れた批評性を発揮していたことを知る貴重な機会でもあった(もちろんこの批評性は都市に対してのみ作用するわけではない。思い起こせば、今から10年以上も前に見たポータブル版の写真集『桂離宮』も、同様の批評性を担っていたはずなのだ)。「写真が必ずしも芸術でなくてもいいと思う……記録でもなんでもいいものをつくれば、それが芸術になりえる」という石元の言葉は、その作品と同様に、長年に渡る彼の活動もまた「芸術」と「写真」の相関関係の中で営まれてきたことを静かに物語っているように思われる。 |