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美術批評のクリティカル・ポイント ――椹木野衣『日本・現代・美術』 |
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暮沢剛巳 | |||||
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![]() それにしても、斬新かつ意欲的な批評であり、多くの問題提起は内容や文体の好き嫌いを超えた域に達している。椹木氏の新展開には、『美術手帖』誌上で後に本書へとまとめられる長編批評が連載されていた1年間、私もずっと注目していたのだが、従来の歴史書とは逆に、90年代の現代から徐々に遡り、「もの派」「千円札裁判」「戦争画」などのエポックを独自に再解釈しつつ、日本の戦後美術をほぼ包括的に論じてみせる力業にはただ舌を巻くばかりであった。そして、冒頭で言及されている彦坂尚嘉の「制作(ポイエーイス)」と「実践(プラークシス)」の転倒が、『シミュレーショニズム』以来椹木氏が絶えず推し進めてきた「アート」と「サブカルチャー」の価値転換とほぼパラレルに対応しているところに、今までの仕事との密接な関連も察せられる。書籍化にあたって、第10章「日本の熱」が挿入された以外にさしたる加筆訂正がなされていないところに不満は残るが、「日本」「現代」「美術」という三つのアスペクトの相互関係を探ることを意図した、結論及びそれに付随する整合性が必須ではない本書にとって、そのことはとりたてて強調すべき弱点でもないだろう。 もちろん、執筆の動機はともあれ、歴史書としての体裁を装う以上、可能な限り考証に厳密を期すべきなのは当然のことであり、その点に関しては、読み物としての面白さを認めた上でなお、留保するべきなのかもしれない。事実椹木氏が多くの事実を誤解(もしくは歪曲や黙殺)しているとの意見も間接的に伝え聞くが、正直なところ、そのあり得べき誤りが果たして、執筆の動機や椹木氏の世代的な限界がエクスキューズとなり得る範囲にとどまっているかどうかなど、椹木氏よりもさらに年少の私にわかるはずもないし、大して関心もない。むしろ問題とされるべきなのは、「反=日本美術史」とこれまた惹起的な謳い文句の本書に対置されるべき「正史」、椹木氏が当然参照すべきだった「正史」が存在しないことの方だろう。椹木氏は一概に「正史」が不可欠だとは思っていないらしいが、“正しい”歴史が記載された書物の存在によって、その対極?に位置するであろう本書の特異点が明確になることを思えば、「正史」の不在はその意味からも残念なことであるし、本来そういう書物を著すべきだった前世代の批評家の責任が追及されるべきでもある。執筆にあたって相当数の文献を参照した当の椹木氏が、日本の戦後美術を批評した先例として、針生一郎の『戦後美術盛衰史』と千葉成夫の『現代美術逸脱史』の2冊(無論この2冊も「正史」ではない)を挙げているだけなのは、われわれを取り巻く書物環境がいかに貧しいものかを如実に物語っており、こちらの方がよほど深刻な事態と言うべきだろう。 近年これほど書籍化が待望された美術批評も珍しい。もちろんそれは雑誌連載時からの圧倒的な読み応えのためなのだが、裏を返せばそれは、他に同様の期待を抱かせる批評が存在しない、既に触れた貧しい書物環境にも対応している。美術が情報化される現代、作家や作品の解釈や再構成を任とする美術批評の役割がメディアの中で年々縮小しているのは事実だが、率直に言って、少なからぬ批評家諸氏がそうした情報化の趨勢に対して無為無策だったのではあるまいか。その点椹木氏が例外的な存在なのは言わずもがなだが、その多産な孤軍奮闘(と形容するだけでは物足りないほど、連載当時の『美術手帖』で椹木氏は多くの頁を占有していた。何ともいびつな誌面構成だったわけだが、この特権的な厚遇は多くの読者に膾炙したテキストの商品価値を前提としてのこと、自身もまた本格的な問題提起を試みない限り、その内容や編集方針を批判したところで何の説得力もない)が放つ光は、どこか虚ろでもある。願わくば本書の刊行が、停滞した美術批評を活性化する契機となって欲しいし、建設的な異論・反論も大いに問われるべきだろう。この期に及んで揚げ足取りや重箱の隅つつきをしているようでは、逆にその批評家のお里が知れるというものだ。 |
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