チケットの売れ行きが思わしくなく、自慢のハイテク装置はトラブル続き……といった悪評もツアー序盤では伝えられたU2のポップマート・ツアー東京公演にほぼ“衝動的に”出かけた。席はひどく、話題の巨大スクリーンも終始欠けた状態でしか視界に入らない有り様。従って通常の意味でのコンサート評を書く資格があるかどうか疑わしい。コンサート内容の紹介は基本的に他に任せるとして、彼らの最近の試みに触発された感想を記しておこう。
90年代に入ってからのU2の「変貌」については誰もが指摘している。ベルリン+B. イーノ絡みの録音ということで、デヴィッド・ボウイの『ロウ』を連想させもする90年代最初のアルバム『アクトン・ベイビー』だが――しかも両者はベルリンに向かう直前までアメリカン・ミュージックに耽溺していた共通点もある――ある意味で両者の方向性は興味深い逆行を示した。むしろU2はかつてボウイが代表格と見なされていたグラムロックじみたグラマラスな衣装を身に纏ってステージに立つようになる。「ようやくゲイリー・グリッターの気持ちがわかるようになったよ!」(ボノ)。あるいはボウイが『ダイヤモンド・ドッグス』や『ヤング・アメリカン』で贋物のソウルを歌った過去をなぞらえるように、彼らは贋物のヒッピホップやテクノに興じ始めることになる。
前回のZOO-TVツアーではウィリアム・ギブスン、ヴィム・ヴェンダース、ジェニー・ホルツァー等々が盗用され、おそらく美学的な完成度でいうと今回のツアーを遙かに上回っていた。本質的にマイナーなヴェンダースのような人が誇大妄想的なヴィジョンにとりつかれると悲惨な末路を辿るが、U2は良くも悪くも既に巨大な規模の「産業」であり、そのことの自覚から彼らのロック離脱計画が開始される。ぼくやあなたがロックスターを真似してもカラオケにすぎないが、ロックスターがロックスターを演じるという自己言及あるいは悪循環的な賭が何らかの興味深い結果をもたらすかもしれない……。グラムロック化はそうした試みの一端であり、プロデューサー/ミキサーにハウィーBらを迎え、リズムセクションがかつてない実験に乗りだすことで、強度を増した最新作『ポップ』に伴うプロモーションビデオやステージングでは、ヴィレッジ・ピープル、ファンカデリック・パーラメント等々の音やヴィジュアルが意図的に盗用されることになる。もっともコンサートの出来としては『ニュー・イヤーズ・デイ』をはじめ過去のヒット曲を愛するファンへの配慮が必要な分、中途半端な印象が否めなかった。巨大なレモン型のミラーボールが開くとそこに腕組みをしたギラギラ衣装の4人が立ちつくすというアンコールでのほとんど笑える演出がむしろもっと前面に出るべきではなかっただろうか?
「サンセット・サウンドの外の通りに座ってボーッとしていたことがあったんだけど、金曜の晩だからみんな浮かれてて、車もガンガン音を鳴らしながら走っていく。車はもはや車ではなく、ホイールに乗ったサウンド・システムなんだよ。人はレコードをかけるためにプレイヤーを買うんじゃなくて、プレイヤーの音を聞くためにレコードをかけるんだ……ここからラップってものが見えてきた。つきつめれば、車のオーディオ・システムはクラブのものとほとんど一緒、つまりクラブ音楽が輸送によって家に持ち帰られているんだ」(『インターコミュニケーション9』)。
スタジアム・ロックという言葉が80年代以降使用されるようになった。最近のU2によるステージは、明らかにスタジアムという巨大な器を、つまりは巨大産業=ロックスターとしての「私」自体を、いかに「聞かせる」かという方向に照準を定めている。ボノの先の発言を読むかぎり、彼らはそうした着想をラップ等々から得たのだろう。人々はU2の音楽を聞くのではなく、スタジアムを聞きに行く……。そうしたアイロニカルな認識を出発点にU2は動く「サウンド・システム」と化してツアーに出る。そのとりあえずの最後の「輸送」先は、彼らが反対を表明して止まなかったアパルトヘイト終焉後の南アフリカ・ヨハネスブルクに設定されている。 |