映画は静止画像が1秒24コマの速度で連続投影されることで私たちの視覚にもたらされる機械論的(メカニスト)な幻影−偽りの運動にすぎない、とベルクソンは言う。だが映画はベルクソンに以下のような返答を試みるだろう。映画が偽りの運動であることを認めるとしても、一体どこに“本物の”運動が目に見えるものとして存在するというのか? 映画は〈運動〉である、それで充分じゃないか? もちろんベルクソンは素朴な映画批判者ではなく、こうした応答自体杜撰に簡略化された素描にすぎない。ただもしベルクソンに伊藤高志の『SPACY』を見る機会が与えられれば、どのような反応を示しただろうか、と想像してみることはできる。 無人の体育館を被写体にした700枚もの静止写真を再撮影し、綿密に再構成=投影することで捏造される『SPACY』のスリリングな運動や空間の生成ほど、映画的運動のエッセンスを抽出し、あからさまに示す作品は他に例を見ないからだ。伊藤高志のフィルモグラフィーは、映画が担う偽りの運動性を隠蔽するのではなく、明確化することを出発点とし、映画でしか実現不可能な芸当のオンパレードとして私たちの視覚をそれこそ幻惑する。
『SPACY』以降、伊藤高志の映画にはかつて浅田彰が「《クラインの壷》の運動」と呼んだ連続運動、無限の増殖運動への耽溺がつねに見出される。だがそれは例えばリプチンスキーやゴドリー&クレームといった今日的な映像作家が目指す滑らかでつつがなく進む無限運動とは異質のものだ。滑らかな無限運動はむしろイメージに“本物”の擬態を演じる余裕を与えてしまう。伊藤作品での無限運動からは悪循環的とでも呼ぶしかない悪意が感じられ、ギクシャクとした痙攣、物質の明滅、自動人形−機械的な運動を思わせる。それではなぜ彼の映画での運動や空間はあれほどまでに安定を欠き、軋みをあげ続けるのかといえば――それは要するに機械的(マシニック)な運動であるからなのだが――つねに映画を構成するフレームの意味に照準を定める映画作家の立場と重ねあわせるべき問題だろう。フィルムであれ、スクリーンであれ、映画という「機械」において、「世界」を狭い四方形の建物(フレーム)に封じこめるプロセスが極めて原理的な性格を帯びる。いかにそこで無限運動が擬似的に繰り広げられようとも、四方形に閉じこめられた「世界」は息苦しさに身をよじらせ、断末魔めいた悲鳴をあげる。というか、そこで展開される「痙攣」こそが、映画の〈運動〉なのではないか?『SPACY』に始まり、立方体の面に風景写真をそれぞれ貼りつけコマ撮りした『BOX』、ある建物の内部で柱を軸に左右が半回転するかのような『DRILL』、逆にレンガ造りの建物が続ける半回転運動を外部から見守る『WALL』など、伊藤の映画では建築が主要な構成要素を占め、あの美しい『THUNDER』 や『GRIM』といった作品では「人間」が登場してもそれらは建物の壁に投射された「影」や「表皮」、より端的にいえばゴーストでしかない。映画は世界を断片化する建築=フレームであり、人間はそこに投影されたゴーストと化すのだ……。
多くの論者が指摘するように、伊藤高志の作品群はまず何といっても恐ろしい〈ゴースト−映画〉である。ゴースト映画ではなく、〈ゴースト−映画〉である点に注意を払ってほしい。そこで描かれるゴーストがおそろしいのではなく、映画そのものが見えないもの(運動、亡霊等々)を可視化する欲望に導かれ誕生した〈ゴースト−映画〉であるということ。つまり私たちが彼の作品にみるのは、映画そのものの痙攣であり、苦痛である。映画のなかに囚われた「世界」がひきつり、軋みをあげ、痙攣的な運動を続行する一方で、そこに住む人間たちもまた文字通りの「幽霊」として、仮面を纏い、自動人形−機械的な運動に支配される。伊藤の同時代人はやはりトビー・フーパーやサム・ライミ、あるいは石井聡互なのだ。彼らが共通して関心を示すのは、恐いものを描くゴースト映画ではなく、映画そのものが恐怖のうごめきとしてある〈ゴースト−映画〉である。伊藤の近作『モノクローム・ヘッド』ではついに、というべきか、彼の映画に登場する人間=幽霊たちを覆う仮面の正体が明らかにされる。思えば『SPACY』のラストに登場する自己言及的なショットですでに明らかにされていたはずだが、その仮面とはすなわちカメラである。カメラで顔を隠し、カメラで世界を見るばかりとなった「人間」たちへの自己言及的な恐怖……。フーパーの『悪魔のいけにえ』があれほどまで恐怖を煽ったのは、あの仮面の怪物が“カメラをもった男”のメタファーであったからだろうか? |