啓蒙的あるいは告発的なものを予想して期待ないし危惧を感じていた観客は、快く裏切られることになるだろう。佐藤真監督の待望の新作『まひるのほし』はいわゆる「知的障害者」のアートを主題としているのだが、そこは『阿賀に生きる』の監督の作品、これを観ると人は思いがけず、そしてあまつさえすがすがしく、爆笑してしまうのだ。
武庫川すずかけ作業所で絵を描く「シュウちゃん」、信楽青年寮で陶器を作る「ヨシヒコさん」、平塚の工房・絵(かい)で自筆のメモや手紙が現代アート作品へと構成された「シゲちゃん」の3人を中心人物として、作品の制作と展示、日常生活の様子をおさめたこのフィルムは、笑いの要素を前面に押し出し、軽やかで愛すべき映画となっている。ナレーションの不在とあいまって、この映画は「メッセージを放棄」しているかに見える。もっとも本当にそうしているのだとしたら、「メッセージを放棄」するということ自体が、この映画の「メッセージ」だということになるだろう――「障害者問題」に対してかまえる必要などない、それは笑いも存在するあたりまえの日常なのだ、と。
音声のサスペンス
笑いの要素を構成しているのが「声」の音調とリズムであったことに、観終わったわれわれは気づくだろう。「スクール水着」「シースル水着」「逗子海水浴場」などと書かれたカードを立てつづけにカメラに示しながら読み上げていく「シゲちゃん」の声の明るさとたたみかけるようなリズム、「なさけない」を連発する「ヨシヒコさん」の飄逸とした声の抑揚、高校野球の優勝校を問われて答える「シュウちゃん」のささやき、食卓で「シゲちゃん」に食器を持つようお父さんが言うタイミング(と、それに対する「シゲちゃん」のリアクション)。サウンドトラックの編集も実際この映画の見どころ(聴きどころ)であり、「シュウちゃん」が自宅で工作をしているシーンでのTVとラジオの音の洪水、画廊内の音声処理、制作を終えて帰る「ヨシヒコさん」の足音など必聴である。
ときに笑いを誘発する音声の不意撃ちをくらいながらわれわれは、予想外の展開にそなえてつねに眼をこらし耳をすませるようになる。かくしてユーモアはサスペンスへと転じる。「シゲちゃん」とお父さんの会話の後半部分や、「ヨシヒコさん」の個展でのショットのいくつかに見られる持続の強靭さは、そうしたサスペンスにささえられている。こうした持続を息をつめて見守るとき、われわれの前には、笑いごとではない事態が不意に出現することになる。妻の死を語る「シゲちゃん」のお父さんの独白が一瞬こじあけてみせるのは、われわれ全員が加担する社会的問題としての「障害者問題」への間口なのだが、フィルムはすぐさま独白をさえぎって、湘南海岸の光景へと切り替わるだろう。
媒体を超えて
「メッセージ」を口にする者はない。アーティストたちはひたすら絵の具や粘土に形を与えていく。しゃべりつづける「シゲちゃん」の姿はヴィデオに記録され、現代アートの作品を構成するモニター画面のなかにはめこまれる。原宿の画廊で彼は窓辺に座り、通りを行く女性たちに声をかけつづけるのだが、窓の外からの切り返しショットになるや、その声はすっかり遮断されてしまう。このとき、ガラス窓はモニター画面の等価物となる。媒体としての絵の具、媒体としての粘土、媒体としてのモニター画面、窓、スクリーン。充分に媒介されることのないまま媒体の向こうに、もどかしくうごめく何ものか。
それに気づいたあなたには、ラストシーンで奇跡が訪れるだろう。挨拶する「シゲちゃん」の画像がモニター画面から消えスクリーン全体が暗くなりかかるとき、そのスクリーンを一瞬、まばゆい光が切り裂くのだ。それは消える瞬間のモニター画面が残すおなじみの閃光に過ぎないのだが、この一瞬をあなたは見逃してはならない。媒体を突き破ることへ、行動を起こすことへ、このときわれわれはいざなわれる。
付記
事実、この映画は行動することなしには観られない映画である。商業公開の予定はさしあたりないので、この映画に接したい者は、観る動きを、観せる動きを、能動的に組織しなければならない。自主上映会開催に関する問い合わせは、以下のところへ。 |