一方で興味深いものは彼を単純なモダニストとしてとらえることを不能とする、異様ともいえる時間感覚である。すなわち彼の建築に見いだせる建築言語には、古代的なモニュメンタリティの超時間性とモダニティのリニアな時間性が混在しているのである。とはいえそれらは、強引に内在的に関係づけられており、見掛け上外在的な文脈との連繋は遮断されている。このような建築言語の異種交配は一種のコラージュとして考えられるが、そこで持ち込まれる言語自体、すでに一般的な意味でのメタフォリカルなものではなくて、換喩のコラージュ、つまるところ関係性の関係づけへと抽象化されているのだ(プロポーションといったものも、隣接する2辺の関係と考えると極めて換喩的なものと考えられるだろう)。その結果そこに見いだせる意味作用は、再度決して一義的なメタファーに回収されず、タフーリが『主体と仮面』で指摘するような複数の関係性を出来させることになろう。しかしながらこうした様々な時間性の交配や絶え間ないヴォイド/ソリッドの転倒を経てもなおそこに厳然と感じとれるのは、それらを統合しているテラーニの建築的思考の強靭さであり、一貫した連続性である。それを敢えて内在的な硬度と呼びたい。 そしてそうした内在性の硬度を再び合理主義と名づけるなら、その拡張された概念に含まれる徴表を切り分ける作業は未だ多く残されているように感じた。