磯崎新の初期の代表作の一つである群馬県立近代美術館(1974)に現代美術棟が増築された。数年前に行なわれたハイビジョンシアターの増築といくつかの改修を含めて、リニューアルオープンといったところである。
増築を記念して、4月11日から《ヨーロッパからの8人》と題した展覧会が開かれている。ミュンスター彫刻プロジェクトのディレクターとして有名なカスパー・ケーニッヒのキュレーションにより、絵画、彫刻、ヴィデオといった様々なジャンルから選ばれた作家が新展示室を中心にインスタレーションをくりひろげている。現代美術展としては予算がかかってると聞く。増築も含めて、美術館側の意気込みが感じられる企画である。
現代美術棟は旧展示室の背後に沿っているため、正面エントランス側からは全くといってよいほど分からない。動線計画的にもスムーズであり、おそらく初めて訪れた人にとってはなんの違和感もないに違いない。明らかに違うのは展示空間そのものに対する設計者の姿勢である。旧展示室において空間そのものの質は強く意識されていたとはいいがたい。むしろ公共の美術館としての機能性、つまり多用途への対応が重視されていた。
今回の増築にあたって、磯崎氏も建設当初も担当であった藤江氏(磯崎アトリエ)も「(少し自嘲気味に)照明しかすることがなかったのだ」と語った。このことは、現代美術の空間としてのフレームがこの20年で確実に変容してきたことを示している。現代美術の展示空間が現在のような形式(ホワイトキューブ)となったのはここ30年ほどである。その要因はさておき、この現代美術全体を覆うフレーム(形式)が肯定、否定どちらにせよ、作家にとって創作上重要な糸口となっていることは否めない。建築家はこれらの現実を受容した上でなんらかのステートメントを提出していかねばならない。この現実が前出の照明云々の話へとつながっている。
増築された展示室は3つである。最も象徴的な展示室3には12mキューブが田の字に並べられ、側頂窓(クリアストーリー)がぐるりと四周にまわっている。窓がなく天井の低い展示室4を経て、展示室5はキューブが2つ並べられ、天井の長手中央にトップライトがまるで機械か作品のように付けられた空間である。
磯崎氏は「群馬のコンセプトである12mキューブをいかにして保持するのかを考えた。クリアストーリーは永らく省みられなかった採光方法であるが、可能性が残されているのではないかと思い採用した。中央に柱を持ってきたのはその効果を活かすためである。人工照明と自然光のバランスに留意した」と話してくれた。そしてオープニングの際、磯崎氏はいっさい人工照明を用いないように指示したそうである。展示室3のクリアストーリーは微妙な光のグラデーションをつくり、照明器具が極力消去された空間は、それだけで美術作品となりえるような厳格さを持ち得ていた。
しかしである。現代美術の展示室はこうした洗練へ向かうのが果たして相応しいのだろうか? そして現代美術は正しい方向へと向かっているのだろうか? という疑問をこの美しくそして使い易そうな展示空間は問いかけているように私には思えた。
それは今回の展覧会のインパクトが何人かを除いて弱く、展示構成もピンとこなかったからかもしれない。もちろん作家のコンセプトは各々興味深い。しかし展覧会として「行ってよかった」というレベルには達していないと思ったのだ。
建築関係者なら展示室を見るだけでも価値があるだろう。しかし美術関係者はどうだろうか? あるキュレーターは「使いやすそうで良い美術館だが、今回の展示は弱いし難解すぎる」と話し、ミュンスターでも招待された曽根裕は「カスパーはいわゆるスペクタクルなショーはやらないよ」と語る。磯崎氏の印象も「コンセプトは面白いけど全体的に弱いね。空間に作品が負けてしまったのかどうかはわからないけど」である。つまり印象としては、みな同じ。展示は弱い。でも作家が考えていることは面白い。美術館はきれいである。
カスパーは十二分に役目を果たしたのだろう。ミュンスターでのセレクションをみて分かるとおり、彼が求めているのは美しく強い作品ではないのだから。しかし、彼のストーリーが分かる人たちはいったい日本に何人いるのだろうか?「そんなことは関係ない。理解されなくても新しいことが重要なのさ」とピーター・アイゼンマンや荒川修作ならいうに違いない。新しければ全て許される。それはクリエーターにとって理想像である。しかしそれを取り囲む環境が要求を受容できなければ、その理想はただ空回りするだけである。日本だけでなく現代美術自身が抱えている問題が浮き彫りにされている様な気がしながら美しい展示室をあとにした。 |