私たちの提案する群建築は、停滞する造形から、動的な造形へ、単純な個性から多彩な社会生活への前進を意味している。柱が一本落ちてしまっても成り立たない造形や、一つのブロックが破壊されてしまっても悲しまなければならないような記念碑的なコンポジションは、それ自身一つの個性ではあっても、多彩な人間生活を包み、歴史的に発展してゆく社会を造形する手段にはならない。(『記憶の形象』下巻)
大学院生や教師として過ごしたハーバードでの生活を切り上げて帰国した槇が現在の事務所を開設したのは1965年、渋谷近郊の閑静な高級住宅地・代官山にて「ヒルサイドテラス」の第一期プロジェクトが開始されたのが67年というから、それだけでこのプロジェクトが槇のキャリアほぼ全域に跨ることがわかる。以来30年、現在第6期(92)まで終了したこのプロジェクトは、現在もなお「ヒルサイドウェスト」(未完成)へと引き継がれているのだから、同じ施主・建築家・施工者によるプロジェクトの一貫性には素直に驚かざるを得ない(私は寡聞にして知らないが、このようなプロジェクトは国際的にもあまり類例がないのではあるまいか)。今回の展示でも、会場の一階部分は多数の写真や図面を交えて余すところなくこの代官山プロジェクトの紹介に当てられており、同じく二階部分は比較的最近の「名取市文化会館」「福島女性総合センター」「富山国際会議場」が模型とパネルで紹介されている。“全貌”と呼ぶにはいささか小規模だが、それでも槇の足跡を振り返るには十分なボリュームの展示となっていると言えよう。
もちろん、展覧会場の写真や模型で紹介されている作品はあくまでも“観賞”の対象に過ぎず、それとは別に現実の「ヒルサイドテラス」の、とりわけ私の立場から言えば、「ヒルサイドギャラリー」「ヒルサイドプラザ」「ヒルサイドフォーラム」(本展の会場でもある)といったギャラリー空間の使い勝手が気になるところではある。同一の施設の中に複数のギャラリー空間が設けられているのは、当然のように用途に応じたその使い分けを前提としてのことであり、使いやすさとサーキュレーションを重視したその基本的なストラクチュアは、メタボリズム的な特徴と呼ぶべき多様性や柔軟性をむしろ排除していたような印象を受けた。
メタボリズムと言えば、槇とこの運動との微妙な関係は今までにも取りざたされてきた。確かに、この運動が60年以降、精力的に未来型の都市計画を提案していった戦後世代の若手建築家一派に対応している以上、海外生活が長かったとはいえ、28年生まれの槇はまさしくメタボリズムの世代に属しているわけで、また自分とほぼ同世代の菊竹清訓や黒川紀章のメタボリックな仕事を高く評価していた事実も、槇をこの一派に組み入れる根拠となるのかもしれない。しかし、冒頭でも引いた槇の「群の理論」は、あくまでも都市空間に機能的なサーキュレーションを実現するための、メタボリズムが唱えていた“生成流転”、有機的な新陳代謝とは別の立場からの発言である。槇とメタボリズムとの関係について、この場で憶断することはできないが、少なくともその揺らぎが以前からのものであることは本展の展示で確かめることができたし、自分の関心に引きつけるなら、それは“極めて都会的な作風のモダニズム建築家”という物言いに納得できない十分な理由となりうる。その意味ではまだ、昨年の台北での個展で謳われたという「細緻的現代主義」の方が、まだ槇の作風と合致しているように思われる。
最後に一言、誰が命名したのか知る由もないが、展示内容から察するに「風景の構築」という副題はいかがなものだろうか。主催者にしてみれば、代官山プロジェクトが長年、周囲の景観に対して周到に配慮してきたことを強調したかったのだろうが、それは『記憶の形象』で展開されている槇の優れた風景論とはまた別の次元に位置するもの、少なくとも今回の展示が「風景」を「構築」するダイナミズムを伝えているわけではないのだから、(仮に当の槇が意に介していないとしても)要らぬ誤解を招く不適切なネーミングであると言わざるを得ない。展覧会の評価など、パラメーターの基準値一つでどうにでも上下してしまうのだから、表題や企画趣旨といった“顔”には、特に注意すべきであろう。 |