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色彩:世界=身体の分節
《モンドリアン展/ハ−グ市立美術館所蔵》
伊東 乾

ハ−グ市立美術館の改装に伴って、日本では二回目の大規模なモンドリアン回顧展が開かれた。今後は常設展発足でこういう機会は減るという。前回、1987年に初めてハ−グのモンドリアン・コレクションがまとめて紹介されたとき、もっぱら複製で作品を知っていた私たちの多くは(また「新造形」は複製のシェマに乗りやすいと誤解され易いこともあって)写真と実物との本質的な違い大きく驚かされたのだった。物理学者のエミリオ・セグレは1910年代のモンドリアンの作風変化を「抽象化の過程」として紹介しているが(*1)、前回展では、そのような乱暴な物言いでは掬い取れない何か、敢えていうなら筆致の純化をつぶさに目撃して衝撃を受けた。色の置き方、塗り目の向き、こういったものはその場で画架に当てられる、あらゆる照明(これに対して絵画はまったく無力だ)によって、あたかも硝子の切子面のごとく明確に機能する。それから10年余を経、改めて作品たちと再会した訳だが、今回はその筆致の行為性を身体の問題として強く再認させられた。細部への凝視、対象と視線、そして手仕事の驚異的な分化は幾重にもわたって予言的だ。

モンドリアンの Nieuwe Beeldingを「新造形主義」と訳すと見えにくくなる側面がある。例えばバウハウス叢書の一冊として訳された「新構成芸術の基礎概念」を独語題 Grund- begriffe der neuen gestaltenden Kunst で見れば、1920年代の芸術思潮の中での色彩の知覚理論、色の不変項をめぐるゲシュタルト心理学との並行関係/連関は自ら明らかだろう。こう考えるとき、私には一つの研究史が思い出されてくる。
 1971年、二人の認知科学者E.ランドとJ.マッキャンは、単なる色の知覚の記述ではなく、網膜から脳内での計算過程まで含めた色覚理論の建設を目指す「レティネクス仮説」を提出した。この理論は「モンドリアン刺激」と呼ばれる平面世界に適用される。モンドリアン刺激は、さまざまな照明が可能な板に大小の長方形の小片が貼りつけられたものだが、無彩色、つまり白、灰色、黒の一変数濃淡強度のみで構成されている。この刺激を用いて彼らは、同一形状、同一濃度の小片でも周りの濃度配置によって知覚される「明るさ」が全く異なることを示した。人の色覚は、全体的な照明の効果から反射率による強度の効果のみを取り出す、この様なアルゴリズムによって「明るさ」を識別しており、それは赤、緑、青の各色覚細胞チャネル毎に独立に行われている、とするのが「レティネクス仮説」の骨子である(*2)。今日の視点から、色を反射率の知覚的近似と見なす比較的伝統的な前提の限界や、知覚末梢の非線型従属性の欠落などを指摘することはたやすい。だが色彩とその知覚を強度の計算理論として記述しなおした功績は大きいと言えるだろう。周知の様にオランダの伝統的な風景画家から出発したピエト・モンドリアンもまた、色を光の分布として追求しはじめた。彼の、ヤン・ト−ロップとも相い通じる外光主義、ルミニスムはポスト・レティネクスの知覚や身体の視点から興味深く捉えなおす事が出来そうだ。「陽光下の風車 Mill in sunlight 」(1908) は、真昼の太陽が風車の建物の頂の真後ろに隠されながら輝いている、その逆光に逆らって眼を凝らそうとする視覚の幻惑に基づいている。凝視するということ。直ちにゴッホが想起されるが、網膜上にちらちらする黒い点や網状のイリュ−ジョンなど、モンドリアンの視線の強度はゴッホを凌駕しているようだ。絶対的な視覚の標準はなく、視覚はつねに何らかの明順応あるいは暗順応に晒されている事実は、普遍的な照明がなく、つねに実際の照明状況の中で事物は映し出されるということと等価である。あるいは「ゼ−ラントの農夫 Zeeland farmer 」(1909-10) もしくは「進化 Evolution」(1910-11) に見る、身体から創発するソラリゼ−ションの驚き/悦び。「キャンバスに『実際の色』が再現されることはあり得ない」という認識から出発したモンドリアンの初期作品は、私には20〜30年代の Nieuwe Beelding 以上に示唆的だ。その過程で「照度に対して身体のレヴェルで不変項を保つ純粋な色彩」として原色や白、黒、灰色などが選ばれてゆく。「原色は(他の色彩とは)まったくちがう/それは内面化する質において際立つのであり/原色のため(の絵画)の世界はまだ整っていない/整うまでの間、その質を活用する絵画は/原色に基づき/白、黒、灰色で補われる/なぜならそれらは/『基本色』であり続けるからである。」(*3)だが「陽光下の風車」などの作品はすでにそれら「補われるべき」白、黒、灰色から自由な色彩の世界に漸近しているではないか。しかし、黒の分節を必要とした彼の中では何が満たされなかったのだろうか。

一時は神智学にも傾倒したこの作家の「視ること」をめぐる極限的瞑想は色彩のみならず形に関しても徹底したアプロ−チを遂行した。しばしば「抽象化」の道程に例示される、あの「灰色の木 The grey tree」や「花咲くのリンゴの木 Flowering apple tree」に至る木の連作から見て取れるのは、単に「抽象化」という以上に「不変項」の抽出ではなかったか。端的に言うなら縮尺不変量、ズ−ミングで保たれる「形のかけら」へに注がれる視線、数理科学の言葉なら「スケ−リング則」を志向する凝視。原始的な樹木の発生分化は「二又分岐」をユニットとしている。これはイチョウの葉を想起すれば分かりやすいだろう。イチョウの胚を電子顕微鏡で見てみると、やはり正直に葉と同じ「二又分岐」の形が確認できる(自己相似のフラクタル・グラフィクスが樹木や森林をよく再現する根拠がここにある)。モンドリアンにあって、行為としての抽象化とは視覚のアテンション、ズ−ミングに因らない不変量を求めるもの、スケ−リングの求道行、「粗視化」ではなくむしろ「微視化」というべきものであったのではないかと考えられる。そしてそれが筆致の一つ一つにまで反映する時、彼の絵画が成立するのだ。作家当人の意識は確かめようもないが、意識以上に作家の身体の分節指向はスケ−リング対称性にあったことを、私たちはNieuwe Beelding期の作品を通じて知っている。そしてそこでこそ光と筆致のテクスチュアリティの重要性が突出して来るはずだった。実際、絵に描いたモダン・ライフの様な、有名な彼のアトリエは、写真などの複製技術でテクスチュアリティを奪われた形で流布し一般化していった。だがそこからモンドリアンの、苦行の果ての飄々とした寛容性を感知することは不可能だったのである。

1920年代に Nieuwe Beeldingのスタイルを確立したモンドリアンが「補われるべき」黒の分節を逃れることが出来たのは、周知のようにアメリカ亡命以後の最晩年、「ニュ−ヨ−ク シティ」あるいは「ヴィクトリ− ブギウギ」といった作品に於いてであった。ここでは、身体の記憶を「色・形」という弁証法的な分節から複数の強度分布へと解放されている。それは網膜=平面というモデルではなく、身体=時間の経過、つまり動的なプロセスを含めたポスト・レティネクスの視点を予言するものでもある。
 色彩による世界の分節とは、複数の強度勾配による身体の分節に他ならない。絶対的な色というものは存在不可能で、色彩は身体の分節を線的にではなく濃度分布的(そして先走って言ってしまうなら「確率的」)に切り取ってゆくのだ。だから形のない色覚も存在するし、そういう別の強度によって身体=世界が当然の様に再分節される。別の感官、例えば「聴覚」と「音」で考えてみるなら、整合したリズムではなく、専ら音色変化によって分節される「音」が考えられるだろうか――実際、音声言語こそそのような強度に他ならない。(これはイスラ−ムの生活に密着したコ−ランの朗誦や、あるいはミニマリズムの経験が開示した新たな声の側面などを想起すれば判りやすいのではなかろうか。)整合した形でなく、色彩が主な分節を担う世界。視覚ではどうだろうか。一つには動体視やロ−ドム−ヴィの流れるイメ−ジなどが考えられる。また、私たちがテレヴィなどマス・カルチャ−に注ぐ不用意な注意を考えてみれば、耳は言語を聴かず目は形を追わない。極端な例なら、人はAVをみるとき何を追うのか。形か、色か、運動か。記号? 言語?? そうであってそうではないことを、私たちは知っている。例えばそういうことなのだ。モノクロ−ムでサイレントのAVは面白いか? ……意識以前に身体が色彩をアフォ−ドしながら、私たちは不確かな生をいきている、その事実が盲点のように浮かび上がってくるではないか。そしてそこで、色彩の担保としてではない「形」として対称性、変換普遍性が改めてアクチュアルな制作原理としての位置を獲得しはじめる、その事実をこそ、モンドリアンの Nieuwe Beeldingは強烈に示唆しているではないか。
「色・形」という分節から複数の強度勾配という分布への傾斜、あるいは、網膜=平面のモデルではない、動的なプロセスを含めたポスト・レティネックス的な視点の予言。その様に考えるとき、晩年のモンドリアンが最も興味をそそられたのが若いアメリカの作家、ジャクソン・ポロックだったという挿話は、幾重にも興味深く思われてならない。

PIET MONDRIAN'S PAINTINGS
WebMuseum, Paris
http://sunsite.unc.edu/wm/paint/
auth/mondrian/










(*1)
エミリオ・セグレ
『X線からクオ−クまで』
久保亮吾ほか訳、みすず書房





(*2)
例えばD.マ−『ヴィジョン』 (産業図書 1987) 275頁 以下を参照されたい。





(*3)
『モンドリアン展カタログ』
18頁
東京新聞 1998
《モンドリアン展 ハ−グ市立美術館所蔵》
会場:長崎、パレス ハウステンボス美術館
会期:1998年1月15日〜4月5日
問い合わせ:Tel.03-3477-9252
会場:東京渋谷、東急Bunkamuraザ・ミュージアム
会期:1998年4月11日〜5月24日
問い合わせ:Tel.03-3477-9252

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